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「は? 『お見合い』……ですか」

 初めて我が家の「鉄の女」、祖母の凪子からその話を聞いたとき、馨子はとてもそれが自分のことだとは思えなかった。そのぐらい、その話は唐突に持ち上がったのだ。

 それは、馨子が中等部を卒業し、高等部に進学したばかりの、まだ春先のことだった。


 春生まれの馨子は、すでに十六になっていた。

 彼女が法律上、両家がうんと言いさえすれば結婚できる年齢になったのを見計らったかのようにして、とある裕福なご家庭から縁談話が持ち込まれたのである。勿論、婿入りの希望であった。

 きりりと背筋を伸ばして正座している祖母を前に、その祖母の部屋である和室の中で、濃い緑色のセーラー服に身を包んだ馨子はやはり正座してその話を聞いていた。

 父と母は、それぞれ馨子の両側に座っている。


「……随分と、急な話でございますわね」

 祖母の顔色を窺うように馨子がそういうと、祖母、凪子はぴりっとした声ですぐに答えた。

「今までも、我が家の息女であれば是非にもと、あちこちからお話は頂いていたのです。貴女にわざわざ話さなかっただけのこと」

 そろそろ九十になろうかという祖母は、その時もまだ十分に、実質上この家の「当主」として健在であった。落ち着いた濃灰色の和服に身を包み、きりりと頭を上げたその姿は、馨子の物心ついたときから少しも変わっていなかった。


(我が家の、息女……ね。)


 馨子は、意外にも冷静だった。

 先様さきさまは、どうせ明治以降になって急に発展したお大尽かなにかに違いなかった。ほかのことはともかくも、財産だけは唸るように持っている家に決まっている。その代わり、もとは平民の出かなにかで、苗字を許されたのも明治以降という、歴史の浅い家ではないだろうか。

 言ってみれば、あちらには寄って立つ「格」がない。対する我が家は、家柄は良くても先祖代々の財産を食いつぶしながら生きてゆくしか能のない、先の見えない砂上の楼閣みたいなものだ。

 相手方はこの家の、その黴の生えたような「格」が欲しいだけ。この家と縁続きになりたいだけだ。別に馨子がどんな不細工、無様な娘だとて構いはしない。女でさえあれば文句はないぐらいのものだろう。


(お見合い、婚約、……結婚。)


 馨子はひとつひとつ、冷めた表情の裏でその言葉を並べて見つめていた。

 別に、覚悟ならずっと前から決まっていたことである。

 妹にそうさせるぐらいなら、自分から婿を取って家を継ごうと、何年もの間そう思ってきたことだった。


 ……しかし。


(どうしたのかしら……わたくし。)


 もやもやと、今になって心の奥底から湧き上がってくる自分の感情が、馨子には理解できなかった。

 今までの自分だったら、すぐにも「そういうことでしたら」と、お返事を返せていたはずのところが。

 何故か今の馨子には、それに素直に「はい」と答えることができない気がしたのである。


 理由は、勿論はっきりしている。

 先ほどから脳裏をよぎる、その人の存在があるからだ。

 とはいえ、馨子には、彼をこんなことに巻き込む気持ちは毛頭なかった。

 一般的なサラリーマン家庭で育った彼に、こんな世界はまったく似合わない。彼に初めて会ったその時から、馨子は、彼を自分の伴侶にするというような大それた望みは持っていなかった。


 もちろん、会いたいし、話したい。

 彼がちょっと笑ったり、静かな言葉で自分をたしなめてくれるその声を聞いていたいとも思う。しかし、だからといって彼を自分の「結婚話」に関わらせるというような、そんな想像をしたことはついぞなかった。

 それとこれとは、まったく次元の違う話だと、頭のどこかできっちり線を引いていたのだ。


「…………」

 いつまでも沈黙して、じっと自分を見つめたままの孫娘の顔を見やって、祖母はふと不審げな顔になった。

「どうなさったのです。お返事は」

「……あ。申し訳ございません」

 隣で両親が不安そうにこちらを窺っているのに気づいて、やっと馨子は我に返った。

「はい。勿論、お受けいたします。日取りそのほかはお任せいたしますわ。どうぞよろしくお願い致します」

 ただそう言って頭を下げ、馨子は祖母の部屋を辞した。





「お姉さま! どうしてそんなお返事を……!」

 その日の夜、ネグリジェにガウンの姿で、櫻子が馨子の寝室に飛び込んできた。彼女の真っ青な顔を見て、馨子はびっくりした。

 ここは洋風の寝室なので、ベッドと小さなテーブル、椅子などの設えになっている。

「どうしたの。なにをそんなに慌てているの」

「な、なにをって、……お姉さま……!」

 彼女らしくもなく、ちょっと口をぱくぱくさせながら、櫻子は顔を真っ赤にしていた。

「落ち着きなさいな。さあ、座って」

 そう言って、馨子は妹を椅子に掛けさせ、自分も座った。

 馨子も、妹よりはデザインの落ち着いた夜着にガウン姿である。


 やっとそれで少し落ち着いた櫻子は、大きく深呼吸をしてから、すぐに本題に入ってくれた。

「わたくし、知っているのです。お姉さまが、いつも学校からの帰り道、どなたとお会いになっていたか」

「…………」

 馨子は、思いがけない妹の告白を聞いて、ちょっと目を丸くした。

「そりゃあ、今は遠くの学校へ行かれてしまって、最近はあまりお会いになってらっしゃらないようですけれど……」

「まって、櫻子。それをあなた、いったいどこで――」

 口を挟んだ馨子を、妹は少し悪戯っぽい目で見返して可愛く笑った。

「あの運転手はいけませんわよ、お姉さま。わたくしがちょっとにっこり微笑んでおねだりしてみせたら、すぐ、お姉さまの大切な秘密のお話を、もうつぎつぎと、ぺらぺらと――」 


(……三木ったら。)


 馨子はちょっと半眼になる。

 まああの男は、本当なら櫻子の運転手になりたかったと言うぐらい、この可憐な櫻子に心酔していた。そうでなくても、この少女に下から見上げられて必死に「お願い」などされてしまって、陥落しない男はそうそういまい。ああ、もちろんあの宗之だけは例外だろうと思うけれども。


 妹は、憤然とした様子で話を続けている。

「とにかく。『お見合い』だなんてとんでもないわ。第一、その方に失礼ではありませんこと? お姉さま、その方とこのままお別れしてしまっても良いのですか……?」

「おわ、かれ……?」

 なんだか妹の言う事がどうもぴんと来ずに、馨子は首を捻った。

「どうして、佐竹様とわたくしがお別れなんてしなくちゃならないの? 婚約しようが結婚しようが、お友達はお友達ではありませんか」

「ちょっと……、お姉さま!」

 あきれ返ったように、櫻子が大きな声を出し、はっとそのはしたない行動を後悔したように口許を手で覆った。

「な、なにをおっしゃってるの、お姉さま。……お姉さまは、その方に好意を持っておられるのではないのですか?」

「もちろん、持っているわよ。そうでなければ、ああまでして会ったりしていないわ」

 すらっとそう答えると、もう櫻子はさらに顔を真っ赤にして、怒り心頭という表情になってしまった。

「お、……お姉さまっ! だから、そうじゃなくて……!」

「だから、落ち着いてと言ってるでしょう、櫻子ったら」

 どうして自分は十六にもなって、中等部に上がったばかりの妹からこんなに叱られているのだろう。


 櫻子は、少し呆然とし、次には頭を抱え、うんうん唸りながら何事かを考えあぐねた挙げ句、やっとこう言った。

「では……お姉さま。想像してみてくださらない? その『佐竹様』がもし、ほかのどなたかとご婚約されて、ご結婚されることになったら……? お姉さま、それをまったく平気でお祝いすることがおできになるの……?」

「…………」


 そう言われて、馨子ははたと動きを止めた。


 佐竹様が。

 あの佐竹様が、ご婚約……ご結婚。


 どなたか知らない素敵な女性が、彼の隣を微笑みながら歩いてゆく。

 佐竹様が彼女に向かって、誰にも見せないような笑顔をこぼす。


 ……ほかの誰にも、見せない顔で。



「おねえ、さま……?」

 驚いたような妹の声で、はじめて馨子は我に返った。

「……え?」


 ぱたぱた、ぽろぽろと、膝の上にのせた手の甲に、ぬるい雨が降っている。

 馨子は、それに気づくのに随分かかった。

 それが、自分の両の瞼から転がり落ちているものだということに。


 庭先では、春のやっぱりぬるんだ雨が、しずかにしとしと降っていた。

 

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