5
「お姉さま、近頃とても楽しそうでいらっしゃるのね」
妹の櫻子が、ふとした拍子にそんなことを言うようになったのは、それから数ヶ月後、すでに秋の風の吹き始めたころだった。
「ときどき、こちらでこうしてお会いできませんか」
あの日、馨子が清水の舞台から飛び降りるような気持ちでやっと宗之に言ったのは、たったこれだけの言葉だった。
当然ながら、宗之は少し驚いた様子だった。そうして「お宅の皆様がご不快に思われるのでは」と、まずはこちらの心配をして、やんわりと断ってきた。
馨子は勿論、得意の笑顔でにっこり笑って、「お構いなく。うちは幸い、自由な気風の家ですもので」と、嘘八百を並べてみせた。真実は、まさにその正反対である。
宗之は苦笑し、しばらく考えていたようだったが、「この時間帯であれば、せいぜい月に一度ぐらいしかお会いできませんが。それでもいいなら」と、最後は折れてくれたのだった。もちろん、馨子が彼の袖に取りすがらんばかりにして必死に「お願い」を繰り返した結果なのは言うまでもない。
当然ながら、馨子は天にも昇る心地だった。
そこからはもう、地面に足がついていないのではないかという足取りで、三木にまで心配されながら、ふわふわと家路についたのだった。
さてそこからも、色々と工夫が必要だった。
宗之は普通のサラリーマン家庭の子息なので、馨子が持たされているようなあの巨大な携帯電話などは持っていない。手紙のやりとりぐらいなら、三木を通じて出来ないこともないとは思ったけれども、それでは急な連絡は取りづらいことになる。
彼が剣道の師範から道場の手伝いを頼まれるのは、せいぜい四、五日前のことらしいので、手紙では不便なことが多かった。
その点を宗之にも相談すると、道場に呼ばれるのは木曜日であることがほとんどだということだったので、馨子は仕方なく、今までどおりに木曜日のその時間にあの桜並木を歩くという日課を続けるほかはなかった。
夏休みに入ってしまってからは、さらに会うのは難しかった。
しかしそれでも、馨子はなんとかかんとか知恵と工夫をひねりだし、剣道の試合や予備校の夏期講習で出かけることの多かった宗之をつかまえては、どうにか会う時間を作ってもらったものだった。
ときには三木を拝み倒して、彼の自宅へ自分の代わりに電話を入れてもらうこともあった。
しばらくはそんな感じで、二人はささやかな逢瀬を重ねた。
もっとも宗之のほうでは、なにか派手な見た目の女子中学生に懐かれてしまったぐらいのことで、決して「逢瀬」などという艶めいた気持ちはなかったのだろうと思われる。
なぜなら彼はふた言目には、なんだか父親の言うようなことを言ったからだ。
「こんなことをしていては、あなたの勉強時間が削がれるのではありませんか」
宗之は、まずはそこを心配してくれていたようだった。しかし、馨子の返事は簡潔だった。
「ご心配なく。少々のことで下がるような成績ではありませんわ」
強気の極みであるが、これはまあ事実だった。
馨子の成績は、その人生の中で常に学年トップを走り続けてきているのだ。白桜女子学園はお嬢様学校ではあるものの、学業面でも決してレベルの低い学校ではない。つまり、そこでのトップといえば相当なものである。
得意げに腰に手などあてて胸を張った馨子を見て、宗之はちょっと目を丸くした。そして次には軽く拳を口許にあて、脇を向いて噴き出した。
(……あ。)
堪えようとしながらも、彼がくくく、と喉の奥で笑っている。
馨子は、それがひどく嬉しかった。
彼のそんな顔を見るのは、その時が初めてだったから。
いつもすっとした顔をして、さほど物事に動じる風のないこの青年が、初めて素顔を垣間見せてくれた、そんな気がしたのである。
「おもしろい方ですね、馨子さんは」
「あら。女性に向かって『おもしろい』は褒め言葉じゃありませんことよ、佐竹様」
やがて笑いをおさめていつもの顔に戻ってから、宗之は楽しげにそう言ったが、馨子はわざと膨れっ面をしてみせた。当時は勿論、彼を「宗之さん」とは呼んでいない。
「どうせなら、『美しいですね』とか『大人らしくていらっしゃる』とか、そういう言葉をお聞きしたいわ。失礼しちゃう」
「……これは、失礼をいたしました」
ふと、宗之が真顔になって、馨子の胸はとくんと跳ねた。
彼が立ち止まったので、馨子もそれにつられて足を止める。
「……お美しいですよ、馨子さんは」
その声は、ごく真面目なものだった。馨子は驚いて聞き返した。
「……え? あの――」
「見目形のことではありません。そちらのことは、僕にはどうもよく分からないので」
「…………」
馨子がよほど変な顔をしていたのだろう。宗之はちょっと考えてから、さらに言葉を継ぎ足した。
「お心延えのことですよ。……馨子さんのお心は、美しいと思います」
それは、ごく淡々とした、しかしまっすぐで真摯な言葉だった。
馨子は思わず返す言葉をなくしてしまって、じっと彼の顔を見つめてしまった。
「ああ、……すみません。出すぎたことを」
それをどう受け取ったのか、宗之はすぐに軽くこちらへ頭を下げてきた。
「いえ、……いえ。いいえ!」
馨子はぶんぶん顔を横に振って、急にわっと駆け出した。
走ったりなどしてしまったら、こんな道、すぐに駆け抜けてしまうのに。
それでも、走らずにはいられなかった。
にやにやと真っ赤に染まっているに違いない自分の顔を、彼に見られるわけにはいかなかった。
誰に褒められるより、嬉しかった。
寡黙で嘘のない彼の口から、そんな言葉が聞けたことが。
◇
そんな風にして、秋が暮れ、冬が訪れて、年が明けた。
年末年始はお互いに何かと忙しかったし、なにより宗之は県外の大学を受験するのだとかで、貴重な木曜日にもあまりあの道を通る機会がなくなったようだった。
当然、彼に会える日はほとんどなくなってしまった。
彼に会えない日々が寂しくて、自室でちょっと小雪の舞う庭など眺めながら物思いに耽っていると、覿面、妹の櫻子に看破された。
「お姉さま、どうしたの? 近ごろお元気がないみたい」
櫻子は、真っ黒で直毛の馨子とはちがって、ふんわりとウェーブのかかった柔らかな茶色の髪をしている。小柄で女の子らしい容姿の彼女には、フリルだのレースだのリボンだのといった甘い服装がひどく似合った。
小ぶりな手で茶器を扱うそのしぐさも、良家の息女そのもので、ほんとうに人形が生きて動いているのではないかと思うような愛らしさだ。
「そう? 別になんでもないわよ。冬はいやでも、気分が沈むものじゃなくて?」
「ええ……はい。そうかも知れませんわね」
そんな風に躱したつもりだったけれども、櫻子にはどうやら、いろんなことがお見通しのようだった。
心の優しい櫻子は、決してそれを姉にぶつけて困らそうなどとはしなかったが、その分ちょっと寂しそうに、心配げな顔をしていたものだった。
そうして、けして押し付けがましい様子ではなかったけれども、馨子の気持ちを明るくしようと、「美味しいお菓子が手に入ったのです」だとか、「おもしろい本をみつけましたの」だとか言っては、馨子の部屋へやってくるのだった。
優しくて、可憐な櫻子。
彼女のためには、自分はこの家を継がねばならない。
しかし、そのためにはいずれ、自分は婿を取らなければ。
(婿……。結婚……)
そんな先の話を、いま考えても仕方がない。
その時は、漠然とそんな風に思っていた。
そんな「大人のお話」は、まだまだこれから、何年も先になってからきちんと考えればいいものだと。
周囲に許婚のある少女など沢山いたというのに、馨子はなぜか、自分自身もそうした「籠の鳥」に過ぎないという事実を、さほど重大には考えていなかったのだ。
それから約一年後、遂に彼女自身にもそんな話が持ち上がる、その時がやってくるまでは。