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「えっ、そんな。冗談じゃありませんよ……」
馨子がその話を持ちかけたとき、三木は思ったとおり、そう言って必死に首を横に振った。
それも当然だ。これからしばらく、下校途中で今日のように、少しだけ馨子ひとりであの河川敷沿いの桜並木の道を歩かせて貰おうなど、なかなかすぐにうんと言ってもらえるはずはなかった。
それでも、馨子も食い下がる。
拒否されることなど端から予想の範囲内だ。
「だから、毎日とは言ってないのよ。せめて週に一度。そうね、今日と同じ、木曜日のあの時間帯だけでいいの。それでも駄目かしら」
にっこりと微笑みながら、なるべく優しい声を出して、馨子は三木にずいと近寄った。とはいえ、妹の櫻子に言わせれば「その笑顔が怖いのですわ、お姉さまは」ということになるらしかったが。
「こ、困りますよ。ご勘弁ください、お嬢様……」
しかし、そう言ってもう半分泣きそうな顔になっている三木に、馨子はさらに容赦なく詰め寄った。
そうして、彼の先日の失態と、今までこんな時のためにと心の中に折り畳んでおいたこれまでのちょっと頂けない行状の数々を並べ立て、やっぱりにっこり笑ったままで、求める回答を引き出すことに成功したのであった。
◇
しかし、ことはそううまくは運ばなかった。
次にようやくかの人に会えたのは、桜もすっかり散り終わり、その枝に青々とした新たな装いが整ってしまった頃だった。
もちろんその間、馨子もぼんやりと時を過ごしていたわけではなかった。
彼の詰襟についていた校章や学年章のピンバッジの形状はしっかりと覚えていたので、馨子はそれを頼りに彼の通う学校と学年は把握していた。
今ではおいそれとは教えてもらえない情報だったが、当時はそこまで学生の個人情報についてのセキュリティは厳しくなかったのが幸いした。「先日とあることでお世話になって、どうしてもお礼が言いたいので」とでも言って、地元の名士でもある父の名前を出しさえすれば、意外と簡単にその情報は教えてもらえた。
そんなわけで、次に彼に会った時には、もう馨子は彼の名前と住んでいる場所を大体は調べ上げてしまっていた。考えてみれば、こうした才能それ自体、現在の馨子の仕事にも大いに役立つものだった。
彼は、名を佐竹宗之という。
思った通り、近隣の県立高校に通う高校三年生だった。
剣道部に所属しており、地味な出で立ちでありながら、けっこうな腕の剣士でもあるらしい。
その日、いつものように木曜日の放課後、馨子はその河川敷沿いの遊歩道、わずか数百メートルの桜並木をできるだけゆっくりと歩いていた。そうは言っても、どんなに時間を掛けてもせいぜい十分程度で歩けてしまうような短い道だ。
また、三木もそうでなければ、このお嬢様のささやかなわがままを許してくれたはずもなかった。三木はこの歩道の入り口で馨子を降ろすと、先にその出口に車を回してそこで彼女を待っている。
(……あ)
その瞬間、馨子の心臓は動きをとめた。
ごく遠目だったが、馨子にはすぐにわかったのだ。
あの、姿勢のよい長身の学生服姿。何気ないようでいて、実は隙のない身のこなし。
先日と同様に、彼は学生鞄のほかに、剣道着などが入っているのだろう大きな袋を肩に掛けていた。
頃はすでに初夏であり、少し暑さを感じる日だったけれども、他の学生らのように襟元をくつろげたりはせず、彼はきっちりとその詰襟を上まで閉じていた。
馨子の傍まで歩いて来てから、ようやくこちらの視線に気付いたのか、彼は静かに目を上げた。その目が、少し考えるように揺れたようだったが、やがて「ああ」と言うように、あの時のように笑ってくれた。
それが、ひどく嬉しかった。
「……こんにちは」
いつものように、彼は言葉すくなだった。
馨子は高鳴る胸を押し隠して、すっと彼に頭を下げた。
「お久しぶりです。先日は、まことに有難うございました」
「いえ。大したことはしていませんので」
前のようにちょっと会釈をすると、彼はそのまま行ってしまいそうにする。馨子は、慌てて彼を呼びとめた。
「あ、……あのっ。お名前を……うかがっても?」
すでに調べ上げてはいるのだったが、いきなりその名で呼びかけるのはあまりにも不審である。彼はやや驚いたように足を止めると、こちらを振り返った。
勿論、馨子はまず自分から名を名乗った。その苗字を聞いて、彼は再び、ちょっと驚いた目になった。その地元で、その家の名を知らぬ者はそう多くはなかったのだ。
そうして、ほんの数瞬思案するような顔になったが、彼はやがて姿勢をただすと、改めて馨子に向き直り、静かな低い声で言った。
「佐竹。……佐竹宗之と申します」
すでに調べて知っていたのに、彼自身の声でそう告げられると、馨子はあらためて、彼のその雰囲気によく似合った、なんていい名だろうと思った。
そこからは、彼の行く方へ歩いてついて行きながら、馨子は少し彼と話をすることができた。
通っている高校と、学年。彼は徒歩通学であるという。普段の日は、暗くなるまで高校の剣道部で竹刀を振っているらしい。
たまにこうして、幼い頃から世話になっている剣道場の師範に請われて小さな子供たちの指導にあたるため、部活を休んでその剣道場に向かうことがあるのだと。
「そうだったのですね。それで……」
だからこんなに、なかなか彼には会えなかったのか。そう思って足元を見た馨子を、宗之は上からそっと見下ろしたようだった。
「もしかして、ずっと?」
「それは大変だったでしょう」と彼が労うのに首を振って、馨子はにっこり笑い返した。
「いいえ。お会いしたかったので。それにちゃんと、こうしてお会いできましたし」
宗之は、そんな馨子の顔を、なにか眩しいものでも見たような目でほんの少し眺めていたが、また前を向いて歩き出した。
桜並木は、いつにも増して短く思えた。
それはあっという間に終わってしまって、馨子はその終わりが近づくにつれ、胸がきゅうきゅう締めつけられるように痛むのを覚えた。
言わなくては。
ちゃんと、言っておかなくては。
そんな風に、誰かに何かをいう事を躊躇したのは初めてだった。
胸の鼓動がうるさすぎて、自分の声が相手にきちんと届いたかどうか、こんなに不安になったのも。
「あ、……あのっ……!」
体じゅうを強張らせて立ち竦み、学生鞄の持ち手を握り締めて出したその声は、信じられないぐらいにかすれていた。
宗之の長い足が立ち止まって、こちらを振り向く。
穏やかな瞳が、続く言葉を静かに待ってくれていた。
さらさらと、新緑の梢が風にそよいだ。
(……ああ、好きなんだわ。)
と、その時思った。
年に似合わぬ、落ち着いたこの風情。
静かで思いやり深いのに、決して出しゃばらないこの優しさが。
彼は、自分とは真逆の人だ。
だから心惹かれてしまったのだと気付くのは、ここから更に数年も先、馨子が高校に上がった頃のことだった。