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自宅屋敷へと続く道の先には、ゆったりと広い川が流れている。
その広い川幅に沿って、小高い場所に遊歩道が設けられており、それを彩るようにして、いま、まさに淡い桃色の花が満開なのだった。
馨子は、天真爛漫なソメイヨシノよりはしっとりとたおやかで優雅なしだれ桜が好みだったが、こうして明るく真っ直ぐに咲き誇っている姿は、やはり見事なものだ。幹の根方には、ちらほらと蒲公英が黄色い花を揺らしている。
犬を散歩させる近所の年配の女性が、やはり犬をつれた顔見知りらしい若い女性と楽しげに話をしている。そのそばを自転車で駆け抜けて行く小学生らしい少年たちの歓声が耳に届き、馨子を新鮮な気持ちにさせた。
車の中にいるだけでは、こうした光景にも、音にも香りにも無縁のままなのだ。
馨子はちょっと伸びでもしたい気分になりながら、ちらほらと時折り舞い落ちてくる薄桃色の花びらの下をややゆっくりとした足取りで歩いていった。
手ぶらなのもなんなので、一応は学生鞄を手にしているものの、中味はほとんど車の中に残してきたので軽いものである。車に戻って来た三木が慌てるといけないので、申しわけ程度に携帯電話も入れてきた。
もちろん当時のものなので、今とは比べ物にならないほどの重量と大きさのある代物だ。外見も黒一色の無骨なものだし、はっきりいって可愛くもなんともない。その上、これを入れたら鞄の中はほとんどいっぱいで、あとは化粧ポーチぐらいしか入らなかった。
こんな物でも、良家の子女だからどうにか持てるような高価な品だというのだから笑ってしまう。当然、普段は三木に預けてあるものだ。
こんなもので行動が制限される生活というのも忌々しいとは思うが、のちのちあの恐ろしい祖母からのお小言を頂戴することを思えば、まあ我慢できる範囲内だろう。とはいえ、今は少しの自由時間をもらおうと、こっそり電源は切っている。
そこここに、花びらだけではなくて、桜が丸ごと花の形のままで落ちているのは、鳥たちがその根元にいたずらをした名残りなのだろう。美しい形のままに地面に無造作に落ちているそれが可愛らしく思えて、馨子はポケットからハンカチを取り出した。
形の良いものを少し選んで、ふたつみっつそこに納める。
帰ったら、ガラスの器に水を張って浮かべてみようかと思った。
河川敷では、また今年も巡ってきた春を楽しもうという人々があちこちで散見された。こちらでは、今夜の花見のためなのか、大き目のビニールシートを広げてサラリーマン風の若い男性がじっと座り込んでいるかと思えば、あちらでは中学生ぐらいの少女たちが甲高い声でなにか言い合いながらバドミントンに興じている。
と、さあっと周囲を強い風が吹き抜けて、足もとでくるくると桜の花びらが旋回した。唐突な風に、河川敷の少女たちがきゃっと声をあげる。
「あ……」
馨子も、長い髪を煽られて一瞬まえが見えなくなり、思わずこめかみのあたりに手をやった。その拍子に、持っていたハンカチが手から離れていってしまい、風に吹き飛ばされて見失ってしまう。
ひととおり、風がおさまったところで馨子は周囲を見回した。
自分から五歩ほど離れたところに、それは拾った花とともに落ちていた。そのすぐ向こうに、黒いローファーとズボンを履いた足が立っているのに気がついて、馨子は目を上げた。
落ちているハンカチを大きな手が拾い上げ、その長い指がそっと土埃を落として丁寧に畳むのを、馨子は呆然と見ていた。その指は、そばに転がっていた桜の花も拾い上げ、畳んだハンカチの上に乗せてくれた。
「……あなたのですか」
静かな低い声が落ちてきて、はっとして目を瞬く。
差し出されたハンカチの先を辿ると、長身の青年の顔が目に入った。
声に相応しい、穏やかな風貌の青年である。特に派手なところもなく、目を引くような美形だとかいうのではなかったが、そのぐらいの年齢の青年にしては、不思議な落ち着きのある風情をしていた。
近隣の県立高校のものらしい、なんの変哲もない黒い詰襟の学生服を着て、学生帽を被っている。学生鞄とともに、肩には武道の稽古着などが入っているらしい大きな袋を提げていた。
なにかの武道をする人なのだろう。だからなのか、青年はとても姿勢がよく、背筋がすっと伸びていて、立ち姿が非常に美しかった。
沈黙したまま自分を凝視して固まっている馨子を、青年はちょっと困ったように見つめていたが、やがてほんの少し、微笑んだ。
「あなたのでしょう。……どうぞ」
ハンカチを手にした長い腕が、こちらへ差し出されている。
「あっ、は……はい。恐れ入ります――」
馨子ははっとして、初めてやっとそちらへ足を出した。青年の手からハンカチを受け取り、改めて深々と礼をする。一分の隙もない、良家の子女としての身のこなしである。このあたりは、一応の「お嬢様育ち」の面目躍如といったところか。
「お手数をおかけいたしました。有難うございました」
「いいえ。……よかった」
青年はやっぱり、静かに笑っているだけだった。
馨子は、自分の胸がとくとくと音を立て始めたのに気がついた。
初対面の女子中学生に、不躾なほどに自分の顔をじっと見つめられて、相手の青年は少し不思議そうな顔になったが、やがて軽く帽子に手をやって、馨子に会釈をした。
「では」
そう言って、彼は馨子の傍を通り過ぎ、何の気負いもない足取りで反対方向へ向けて歩いていった。その背中は、やっぱりきりりと美しかった。
馨子は、しばし呆然と、その背中を見送った。
はらはらと、桃色の花びらが舞う。
駆け抜けてゆく子供たちも、犬を散歩させる主婦らしき女性の姿も、馨子の視界には入らなかった。子供たちが大声を上げているのにも、ほとんど気付いていなかった。
ただただ、ずっと、遠ざかってゆくその青年の姿を見送りながら、馨子はじっとそこに立ち尽くしていた。
「お嬢様! 馨子お嬢様……!」
と、唐突に、その幻想は無粋な声に打ち砕かれた。
遊歩道を挟んで川の反対側を走る車道の方から、運転手の三木の声が飛んできたのだ。体調が戻ったのか、すっかりいつもの顔色になっている。
三木は車を路肩に寄せて、慌てた様子で歩道への坂道を駆け上がってくるところだった。
「良かった、こちらにおられましたか……!」
あの明治の遺物のような祖母の雷は、この運転手も相当に恐ろしいらしい。青ざめていた顔が、馨子を見つけたことで、やっとほっとしたように緩んでいる。
「あ……」
馨子がちょっと苦笑して彼を見ていた目をもとに戻したときには、もうあの青年の姿は視界のどこにも見えなくなっていた。
歩道には、サッカーボールを蹴りながら歩いて来る少年たちや、ベビーカーに赤子を乗せた母親、ジョギングをする青年などがいるばかりだ。
す、と虚しい気持ちが駆け抜けて、馨子は手にしたハンカチを握りしめた。
もう一度、会えるだろうか。
いや、会いたい。
必ず会うのだと、そのとき思った。
馨子、十四の春だった。