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馨子の母校は、名門、白桜女子学園だ。
基本的に、両家のお嬢様ばかりが通う、庶民からすれば相当に「敷居の高い」学校である。妹の櫻子もそこの初等部に通っているが、三つ年上である馨子は、当時、そこの中等部二年生であった。
それは、新学年の始まった、四月初旬のことだった。
白桜学園中等部の紺地のセーラー服を着て、馨子はいつものように、迎えに来た黒塗りの家の車で帰宅するところだった。ちなみに、初等部は灰色、高等部は濃い緑色の制服である。
運転手の男は三木といって、やや痩せ気味だが真面目で優しそうな中年の男だった。
窓外には、ちらほらと舞いはじめた桜の花びらが散見されている。
それは、街中を走り抜けるいつものコースを半分ほど来たところだった。先ほどからどうも少し顔色が良くなかった三木が、不意に車を路肩に寄せて停車させ、申しわけなさそうにこう言ったのだ。
「お嬢様、申しわけありません……! あの、ちょっと、は、腹の具合がっ……」
と、言うか言わないかのうちに、真っ青な顔で車を飛び出し、そばの商業施設へと駆け込んでゆく。どうやら、そのまま手洗いを借りるつもりのようだった。
馨子は車の後部座席でちょっと呆然としていたが、まあ急な体調不良はだれにでもあることだと思いなおし、仕方なく窓の外を見やったりして三木を待つことにした。
街はすっかり、春の様相である。
黄色い帽子と、交通安全のマークの入った黄色いカバーをつけたランドセルをしょった小さな小学生たちが、たのしげになにか喋りあいながら歩いてゆく。近隣の高校生らしい少女たちも、きゃあきゃあと声を上げながら歩きすぎてゆく。
巨大な灰色の屋敷に閉じ込められるようにして暮らしている馨子とは、まったく住む世界の違う人たちだ。正直、羨ましくないと言えば嘘になる。
白桜学園に通い始めるまでは、家の外に出ることすら相当の勇気が必要だった。とにかく、何をするにも「ご当主様」の許可がいる。つまり、馨子と櫻子の実の父だ。しかし、比較的優しい人柄の父はよくても、その上のかた、つまり祖母が問題なのだった。
この、明治生まれで気難しく、躾に厳しい実の祖母が、まことに難攻不落だった。
「はしたない。当家の子女には、そのような外出は不要です」
彼女がひと声そう言ってしまったら、どんなに楽しそうな友達とのお出かけも、大切な約束も、全部反故にするしかなかった。遊園地も、映画館も、知らなかった。図書館にですら、相当の重要な理由がなければ行かせては貰えなかった。どうしても必要な資料なら、使用人に揃えてもらえばよろしいと、そのひと言で終わりだった。
祖母は箸の上げ下げひとつ、言葉遣いのほんのわずかの乱れにさえとても厳しい人で、馨子や櫻子は勿論のこと、父や母ですら、彼女の前では相当に緊張している様子が窺えたものだった。
そのような息の詰まる屋敷から離れて、晴れて白桜学園に通えるようになってからは、少しは息がつけるようになったのは本当に有難かった。とはいえ、その白桜学園とて、良家の息女ばかりの集まる上流階級社会の縮図のような学校であって、とても一般の小学校と似ているとは言えない世界ではあった。
女子ばかりの学校でも、そこはやはり立ち居振る舞い等々の躾に厳しく、間違っても他校の男子生徒とどうこうなれるような環境ではなかった。寮もあったが、そちらに入ることは義務ではなかったものの、登下校はきっちりと家の者に送迎されることを義務付けられていて、家と学校を行き来する以外の行動は許されない。
それは明らかに、いずれ将来はどこぞの良家の子息と結ばれるため、少女たちが「妙な虫」につかれないようにするための安全策であった。
要するに、みな「籠の鳥」なのだ。
自由にものを言うことも、行動することも許されない。
そして万が一、故意に道を踏み外し、そのレールから外れてしまったら、その娘は即座に学校から放逐された。それはもう、容赦ないほどのものだった。
その、今にして思えば不自然で鬱屈したような環境のもと、「籠の鳥」たる少女たちの精神はやはりどこかが歪だった。
まだ十二やそこらの少女でも、すでに将来の結婚相手の決まっているような者はざらだったし、それが若い子弟であるならまだしも、先妻に先立たれた中年男性だという娘も結構な数でいた。
そんな中、少女たちはこの小さな「籠」の中で、不自然な「愛」に目覚め、そこでその夢物語のような「愛」に溺れてたゆたう者も多かった。
馨子自身は、そうしたある種逃避のような「愛」にはまったく興味はなかったのだったが、生憎と相手はそうは思ってくれなかった。長身で、学業もスポーツも器用にこなし、派手な態度と容姿の馨子は、いわゆる「男性役」としてそうした傾向のある少女たちから結構な人気があったようだった。
「告白」にまつわるイベントごとなどのある期間には、靴箱や机の中に山ほどプレゼントや愛の言葉のつづられた手紙が突っ込まれていたし、恥ずかしそうな真っ赤な顔で放課後などに呼び出してくる下級生の女生徒もあとを絶たなかった。
「悪いわね。ごめんなさい。そういう『愛』には興味がないの」
馨子らしく、竹を割ったような返事でいつもそうやって断るのが、これまた本人の意に反して少女たちの人気を煽る結果になった。
とはいえ、馨子自身はただただ、迷惑だとしか思わなかった。
女生徒しかいないこの世界の、なにか陰鬱なくぐもった情熱の温床は、馨子の精神を疲弊させるばかりだった。
馨子の本質は、自由と進取の気性である。大空にはばたくべき鳳が、なぜ雀や燕とおなじ巣にいつまでも同衾していなくてはならないのか。
無意識のうちにもそんな風な静かな嫌悪感を覚え、馨子の心の底には、次第しだいにそうした澱が溜まってゆくようだった。やがてそれが、手足の先から自分を蝕み、腐らせてゆくのではないのかと、考えれば考えるほど、それを空恐ろしく思ったりした。
(遅いわね……三木ったら。)
すでに三十分近く、そうして車の後部座席に座って物思いに耽っていた馨子だったが、ついに我慢の限界がきた。
外界は、爽やかな春の陽気なのだ。
楽しげに歩く人々、あかるい薄桃色の桜の色。
馨子はもう堪らずに、「歩いて先に戻ります」と三木宛のメモだけを残して、車のドアから外へ出た。
白桜学園の制服と、長身、美貌の馨子に目を奪われた通行人の視線をものともせずに、彼女は軽い足取りで、春爛漫の街の通りを歩いていった。
昭和の香りの女子校でした(笑)。