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 息子、煌之あきゆきは、風変わりな子供だった。


 いわゆる嬰児と呼ばれる頃を過ぎて以降は、滅多に泣くこともなくなって、黙然と部屋にある様々な絵本などをじっと見ていたり、父のする剣の稽古を眺めていたりすることの多い子だった。


 馨子も、ひとの成長には個人差があるぐらいのことは理解していたので、巷に出回っている育児書などはあまり当てにはしなかったけれども、なかなかそれらしい「赤ん坊言葉」さえ発しない我が息子を、多少疑問に思わなくもなかった。

 しかし、宗之も落ち着いたものだったし、「ま、そういう子なんでしょ」ぐらいで、おおらかに構えて育てていた。


 市区町村で行なわれている、それぞれの月齢に対応した健診などに連れて行けば、簡単な知能テストのようなものも行なわれている。

 普段「あー」も「まんま」も言わないわが子は、しかし、保健師の見せる果物や動物の絵を、相手がその単語を言うか言わないかのうちに、素早く正確に指で指し示して見せた。その表情かおといったらもう、「馬鹿にするな」と言わんばかりで、その小さな体を膝の上に抱いている馨子のほうで、ちょっと呆れるぐらいだった。

 苦笑しながら「まあ、知能に問題があるということではないようですね」と言う保健師を、途端にぎろりと睨む赤ん坊など、見たことも聞いたこともない。が、ともかくも馨子はひと安心するのだった。


 不思議なもので、普段いっしょにいる時間が長いせいか、宗之と煌之は、言葉を交わさなくともどこかで通じ合うものがあるようだった。

 幼児と呼ばれる年齢になると、それはさらに顕著になった。

 宗之が、リビングで何を言ったのでもなしについと顔を上げただけで、煌之はすっと立ち上がって、新聞を取ってきたり、手馴れた様子で茶を淹れてくれたりするのだった。

 この頃になるとさすがに、煌之も「父さん」「母さん」は勿論、必要なことは口に出すようにはなっていたが、やはりそれでも周囲の子供たちに比べれば、十分に寡黙な子供だといえた。


 ちなみに馨子は、あまり息子に「お母さん」と呼ばれたい人間ではなかった。いやもちろん、「ママ」なんていうのはもってのほかだ。育った環境によるものだろうけれども、ともかく馨子は「私は日本人なんだから」という旧い考え方がどうにもこうにも抜けない女なのだった。

 まあともかくもそういうわけで、馨子は煌之には無理やりにでも自分を「馨子さん」と呼ばせると決めてしまった。

 それを聞いた宗之はちょっと苦笑していたけれども、特に否やは言わなかった。

 初めのうち、ひどく嫌そうな顔をしていた煌之も、そう呼ばなければ返事をしない馨子に遂に業を煮やしたのか、やがて「馨子さん」と呼んでくれるようになった。


 小学校に上がるとすぐ、煌之はまるでそれが当然のことであるかのように、宗之が世話になっている道場に入門して剣道を習い始めた。

 護身術の一環として、子供のころから剣道、柔道、合気道などを少しは習ったことのある馨子にも、彼に才能があることはすぐに分かった。宗之も、あまり多くは語らなかったが、我が子の剣の才能については相当に評価していたのではないかと思う。


 小学校の三年生ぐらいになると、早くも煌之は子供こどもした丸みのある顔立ちを脱ぎ捨てて、男らしい精悍な雰囲気を身につけ始めた。

 寡黙で、わがままのひとつも言わない煌之は、手の掛からない、いや掛からなさすぎる少年だった。そのことを少し寂しいと思わなくもなかったけれども、すでにその頃、国際弁護士としての仕事に忙殺されていた馨子にとって、それは願ってもない話でもあった。

 だから、海外から久しぶりに飛んで帰ったりしたときには、可愛い息子を必要以上にぎゅうっと抱きしめたくなってしまう。宗之にもそうしたいのは山々なのだったが、当の宗之が、たとえ家族の間でも、ひと目のあるところでそうしたことは避ける人だというのはよく分かっていた。

 だからその分、しわ寄せは大々的にそのひとり息子に行ってしまうことになる。

 ある程度の年齢になると、その煌之も、剣道で身につけた素晴らしい体捌きでもって、馨子の熱い抱擁の腕をするりと逃れるようになってしまったが。

 これは寂しい限りだった。


「そろそろやめて貰えませんか、馨子さん」

 半眼になって睨んでくる男前なその息子を、馨子はもういじりたくて仕方がない。

「いや〜ん、あきちゃん! どうして母親が、息子をぎゅ〜ってしちゃ駄目なのようっ!! どこにそんな法律があるの? たとえあっても速攻で無効化してみせますけどね、このあたしの辣腕らつわんでっっ!」

 ぐぐっと拳を握り締め、仁王立ちになって言い放つ母親を、息子はしれっとした顔で見上げて言うのだ。

「今年で自分もとおになります。そろそろ子離れして頂かないと」

「え〜っ。いくらなんでも、それは早すぎでしょう、あきちゃん! 十歳が成人年齢って、どこの未開民族なのよう〜っ。お母様、寂しいわあ。やっぱりもう一人、赤ちゃん産んどけばよかったああ!」

 パンツスーツに包んだ長身で子供のように地団太を踏んでいるうちに、息子は読んでいた本を片手に、あっさりと自分の部屋へ引き上げて行く。


 幼い頃は、あれほど喋らなくて不思議に思ったその息子は、いざ言葉を発するようになった途端、正確な敬語まで駆使して理路整然と、ときに弁護士である母ですら言い負かすほどのスペックを持つ、恐るべき小学生であることが判明した。

 和室の方からこちらをちょっと眺めていた宗之が、「またやってるね」という顔で少し微笑む。

 これが佐竹家の日常茶飯事なのだった。


「ほんと、ちょっと家を空けてるうちに、どんどん成長しちゃうわね。嫌になっちゃう」

 和室に入って宗之の傍に座ると、宗之はゆったり笑ってこちらを見た。

「子供が生まれると、時間の進みが早くなるとは言うけどね。煌之を見ていると、本当だなあと実感するよ」

「しかも、どんどん男前になっちゃって。そのうちクラスの女の子が放っとかなくなるんじゃない? ちょっと妬けちゃうわ」

「おやおや」

 宗之は穏やかに笑っているだけだ。

「あ、でも、宗之さんほどじゃないですけどね! 煌ちゃんなんて、男としてはまだまだよ。女を言い負かそうなんてとこからしてもう駄目よね。あ〜、青いったらありゃしない。やっぱり、宗之さんが最高よ」

 言って、軽く片目をつぶって見せる。

 海外で働くことが増えた馨子は、すっかりもとの「お嬢様言葉」にはおさらばして、近頃ではほぼこんな調子だ。


「お手柔らかにね。相手は十歳の子供だよ」

 宗之はそう言って、軽く馨子の腰に手を回し、抱き寄せて顔を近づけた。

「……うふふ。わかってるわよ」


 息子の目がなくなった途端、こうして軽く唇を合わせるのにも随分慣れた。


「……おかえり、馨子さん」

「ただいま、宗之さん」


 微笑みあいながら、額を軽く擦り合わせ、この幸せを実感する。

 馨子にとって、これはまさに、仕事の疲れの吹き飛ぶ瞬間だ。


 こんな幸せが、ずっと続くなんて思っていなかった。

 それは、盗人猛々しいというものだ。

 人の命には限りがある。

 だれだって、どんなに大切な人とだって、必ず別れはやってくるのだ。

 だからこそ、いまこの瞬間を、一生懸命に大切に、大切に生きていこう。

 いやそうするのだと、いつもそう思っていた。


 でも、それでも、その時は馨子が思うよりもずっと早く、刻一刻と迫っていたのだ。

 その幸せで、温かな日々が終わりを告げる、その時は。



 それは、煌之が中学二年になった、その年の夏にやってきた。

 あの宗之が、突然、謎の失踪を遂げたのである。


次のお話にて完結の予定です。

ここまでお付き合いいただき、有難うございました。

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