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そこからの馨子は、がむしゃらだった。
高校の勉強は勿論のこと、その時点でできる勉強や将来役立つと思われる資格はなるべく身につけるように心がけた。
もともとの学習能力の高さに加えて、はっきりとした目標を持った馨子の勉強熱といったら、それは凄まじいものだった。許される限りの飛び級を申し出て、高校二年の夏にはほぼ高校生としての勉強内容は網羅してしまい、以降は将来を見据えて受験勉強の傍ら、法律の勉強を始めた。
もちろん、そんな多忙な中でも、あの桜並木を宗之と歩く、そんなささやかな楽しみは続けていた。
静かな静かな、ほんの十数分の語らいである。
「申しわけありません。あなたばかりに、負担を掛ける仕儀となり――」
宗之は、馨子ばかりがそんな厳しい条件で自分との将来を選び取ってくれたことに、非常に申し訳ない気持ちでいてくれているようだった。
「いいえ。自分で選んだことですもの」
しかし、馨子は不思議に平気だった。だから本当に、きりっと頭を上げたまま、心からの笑顔で宗之に向かってそう言った。
宗之は、しばし眩しいものを見るような目で馨子を見つめ、人目のない瞬間を見計らって、ほんの僅か、馨子の手を握ってくれた。
彼の手は、温かかった。
ただそれだけのことが、空に舞い上がるほどに嬉しかった。
大変でないと言えば正直嘘にはなったけれども、そこに希望があるのなら、人はどんなことも生き生きと努力し続けられるものなのだ。
宗之という人を知って、彼を愛し、彼との将来を許された馨子の世界は、もはや色のない世界などではなくなった。学校にいても、家にいても、心の中には将来の色彩に満ちた明るい灯火がずっと灯っていた。
そうして、三年後の、春。
無事に希望する大学への合格を果たし、馨子は家を出た。
その頃には、ちょっと過保護ぎみな父と母が、勝手にセキュリティの万全な物件を探してきて「ここに住みなさい」と、もはや懇願されるような形で押し切られ、馨子はそのマンションの一室に落ち着いたのだった。
のちのち、それらの家賃や敷金を自分で支払わねばならないのだから、馨子としては本当に安い賃貸の適当な物件で構わなかったのに、「あなたは女の子なのだから」と、母、好江が頑として譲らなかったのだ。
好江は、もし必要とあらばその差額分は彼女個人の財産から賄うとまで言ってくれた。もちろん馨子は、その申し出は断ったけれども。
親の愛の有難さを、身にしみて感じた春だった。
大学に入ってからも、馨子の凄まじい勉強熱は冷めなかった。出来るだけ早く単位を揃え、司法試験を受けるべく、日々勉強の毎日だった。もちろん、凪子に宣言したとおり、僅かずつでもアルバイトをして借りた金を返すことも始めていた。
そんな中での清涼剤は、勿論、あの宗之である。
その頃には宗之も、すでに大学を卒業して社会人になっていた。彼はいつも、超多忙な馨子にスケジュールを合わせてくれていたが、社会人になってからも続けている剣道の試合の日だけはそういう訳にもいかなかった。そんなときには、馨子も彼の試合を見に行った。
馨子が宗之の剣を見たのは、それが初めてのことだった。
その凄まじさに、息が止まった。
あの時、あの恐ろしい祖母を前にしても、彼が気概において一歩も退かなかった理由がはじめてわかった気がした。
静謐で、ただ恬淡と、あらゆる欲をそぎ落としたかのような佇まいでいながらも、対する剣士たちは宗之のどこにも打ち込めないままに、ひとり焦って競り急ぎ、次々に自滅してゆく。
宗之は相手の剣士らに対し、どこまでも礼を尽くして、最後にはきりりと美しい礼をしたものだった。
日々は流れ、馨子、二十歳の春に、二人はささやかな式を挙げ、遂に結婚の運びとなった。
あんな風な顛末で家を出た娘だ。そんなことをして貰う筋のことではなかったのに、祖母も、父母も、櫻子も、嬉しげな顔でもういそいそと式に出席してくれた。
櫻子などは「そんなの、当然でしょう! お姉さま」と憤然としていたものだった。
彼女自身のお見合いも滞りなく進められ、どうやら上手くいきそうな気配であるらしい。お相手のその方は、幸いにして、裕福で温かな家庭に育てられた、穏やかな優しい人なのだという。
十七になった櫻子は、咲き初めた花のようにふっくらと、それは美しい娘になり、時折り幸せそうな笑顔を浮かべていた。馨子はそのことに、なによりも安堵した。
そんな訳で、結婚生活はまずまずの滑り出しだった。
とはいえ、馨子の目指す弁護士への道はなかなかに険しい。いまだ在学中であり、新婚生活らしいことは何もなく、当然、旅行などにも行かずに、二人で小さな部屋を借りて、慎ましやかな生活が始まった。
宗之は自分の仕事のこともあったろうに、基本的には全面的に馨子の勉強のサポートに回ってくれ、家事そのほかも何の苦もなくあれこれとこなしてくれた。
洗濯物を干していても米を砥いでいても、宗之はやっぱり、宗之だった。彼はいつも、どんな時でも、すっと背筋の伸びた美しい姿をしていた。彼はなんと意外なことに、「自分のことは自分でできる人間であれ」という家庭の方針で、家事そのほかのひと通りこなせる男だったのだ。
後々、馨子は学友や同僚たちから「なんて掘り出し物をみつけたの!」と呆れられるやら羨ましがられるやらなのだが、それはまた、別の話である。
さてそして、一年後。
馨子は思わぬ休学を余儀なくされる。
宗之の子を、身籠ったのだ。
当然、勉学に支障の出ることは予想されたが、馨子は少しも残念だとは思わなかった。子供ができるなら早いうちがいいとも思っていたし、なにより、宗之の子が欲しかった。
こんな状況で赤ん坊を育てるのは相当たいへんだということはわかっていたけれども、「ま、なんとかなるわよね」がその頃の馨子の合言葉のようなものだった。
隣に宗之がいてさえくれれば、どんなことでも、何とかなる。
そう思わせてくれる宗之が、誰よりも大切だった。
実際は、生まれた赤子の世話を巡って、軽く両家の祖父と祖母、つまり宗之の父母と馨子の父母との攻防があったぐらいに、両家のじじばばが争うようにして息子の面倒をよく見てくれた。
宗之ももちろん、当時の男性にしてはちょっとありえないぐらいの素晴らしい家事能力でもって、大いにサポートしてくれた。
五月に生まれたその息子を、宗之と馨子は「煌之」と名づけた。
赤子でありながら結構凛々しい顔をした子で、派手めな馨子の容貌と、精悍な宗之の雰囲気とを併せ持つ、それは素敵な男子になりそうな予感がした。
赤子がその小さな眉間にきゅっと皺を寄せる時、その成長した姿を想像しては、馨子はひとりでにやにやしていた。何故だか、わくわくすることが始まりそうな気がして仕方がなかった。
慣れない育児は決して楽ではなかったけれども、睡眠不足と戦いながら、それでも六法全書にかじりついていた日々は、馨子にとって宝物のようなものだった。それは勿論、隣に宗之がいつもいてくれたからである。
馨子は、煌之が生まれてしばらく経ってから一度だけ、実家の西園寺家へ彼を連れて行ったことがある。
その家の敷居を跨ぐことは、自分でそう決めたとおり、それまで馨子は一度もしてはいなかった。
その時も、そうだった。
門の前まで赤子を抱いて連れて行った馨子は、出てきた好江に息子を預け、ただその門の前で待っていた。
「そんなことで意地にならないで、入ってちょうだい。お願いよ」と、母が何度もそう言ったけれども、馨子は固辞して、そこで待たせてもらったのだ。
母は、その頃少し病みついて床にいることの多くなっていた凪子のもとへ、息子を抱いて連れて行った。
母によれば、祖母、凪子は、布団の上に起き上がり、息子を抱いてくれたのだという。
煌之は、別に親以外のだれに抱かれたからといって泣くような赤子ではなかったが、見知らぬ曾祖母に抱かれたその時も、しっかりとつぶらな黒い目を開けて、もの問いたげに凪子の顔を見上げていたらしい。
そして凪子は、好江から赤子の名前を聞くと、にこりと笑って、ひと言こう言ったのだという。
「そう、煌之……。良い名です」
祖母が身罷ったのは、その年の暮れのことだった。




