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「おばあさま。誤解のないよう申し上げたいのですが」

 座敷の皆の目が、一斉にこちらを向いた。


「佐竹様は、決してご自分からわたくしに近づかれたのではありません。わたくしのほうで、三木にも無理を言った上、勝手にお近づきになったのです。はしたないこととは思いましたが、相当、強引な真似を致しました。以降、佐竹様のご迷惑を承知の上で、このように月に一度、ほんの十分程度いっしょに歩いて帰っていただく、そういうお付き合いをして参ったのです」


 頭をあげ、澱みなく言った馨子のその言葉をうけて、父母が明らかに少し安堵したような空気を醸し出した。それは、祖母の方でも同様らしかった。凪子の表情が、ふ、と僅かに和らいだのだ。

「それはそれは。また随分とお可愛らしいことね」

「恐れ入ります」

 軽く一礼して応えたのは、宗之だった。

 凪子はじっと、その人となりまで見通すような瞳で相手の青年を見返していたが、やがて静かな声でこう問うた。


「それで、そちら様は、今後どうなさりたいとお考えなのでしょう。当家の娘に縁談の話が参っておりますこと、当然、ご承知の上なのでございましょう?」

「はい。先ほど馨子様からうかがったところでございます」

 宗之も、やはり静かにそう答えた。そして、つと目線を上げると、斜め前に座った馨子を一度見やって、また祖母へと視線を戻した。

「馨子様のお気持ち次第のことではありますが。馨子様が相応しい年齢になられますまでは、出来ましたらこのまま、お付き合いをお許し願えないかと考えております」

 そう言って、彼がすっと頭を下げた。


(……!)

 

 馨子の心音は、さらに跳ね上がった。

 それは、なんのてらいも気負いもない声と仕草だった。しかし、そこにはしっかりとした彼の意思が感じられた。

 祖母は、それでおしまいにはしなかった。そうして厳しい視線で真っ直ぐに宗之を見据えたまま、はっきりとその部分に斬り込んだ。

「相応しい年齢、とおっしゃいましたわね。それは、どのようなことについての『相応しい年齢』だとおっしゃるのでしょう。はっきりお答えくださいませ」

 宗之が顔をあげ、再び凪子の瞳をまっすぐに見返した。


 少しの間があった。

「こちらも、馨子様のお気持ち次第のことではございますが」

 言いながら、宗之はまたそっと馨子の表情を見やったようだった。だが、また凪子へと視線を戻すと、水の流れるごとくの恬淡とした静かな言いざまで、すらりと次の言葉を口にのせた。

「自分としましては無論、こちら様のようなお宅のお嬢様と無責任なお付き合いを致すなどは毛頭考えておりません。いずれ、将来を誓い合った上でのことと心得ております」

「…………」


 馨子は、もはや言葉を失っている。

 目の前で起こっていることのすべてが、とても現実のものとは思われなかった。

 呆然としている馨子の前で、宗之は凜とした居住まいのまま、さらさらと言葉を続けている。


「とは申しましても、自分はこちら様とは比べるべくもない、単なる一般家庭の子息です。そちら様のご意向に反してこのようなこと、一方的に申し上げるべきでもないことは重々承知しております。あとのことは馨子さまと、ご一同様のお考え次第とは思っております」


(な……にをおっしゃってるの? この方――)


 馨子はもはや、唖然と彼の言葉を聞いているばかりだ。

 第一、何が「自分はあまり言葉の上手いほうではないので」だ!

 いまの馨子の、何よりの驚きはそこである。


 それほどの心胆があり、このような場でこれだけのことを言ってのける、そんな男のどこが「言葉の使いまわしが不得手」だと言うのか。

 そのへんの、どこにでもいる彼と同年代の大学生をここへ連れてきて、その男がこの凪子を前に、いったいどれほどの口上を述べられるというのだろう。

 隣の櫻子も、向かいに座る父母も、思うところは同じのようで、みな半ば口を開けたようになって呆然と、宗之のごく地味な相貌を見つめるばかりだ。


 しかし、凪子だけはそうではなかった。

「おっしゃることは分かりました」

 彼女はひと通り宗之の述べるところを聞き終えて、厳しさの乗った声音でそう言うと、今度は馨子に向き直った。

「ここからはあなたに訊きましょう。こちらの方はこのようにおっしゃっていますけれど。馨子、今のお話について、あなたはどうお考えです」

 話の矛先がこちらを向いて、馨子は再び、ぴりっと背筋を緊張させた。一瞬、宗之をちらりと見ると、彼はやっぱり静かな水面みなものように凪いだ瞳をして、こちらを見返してくれていた。

 馨子はそれに背を押されたような気持ちになりながら、顎をあげて祖母を見た。

「……わたくしも、佐竹様と同じ気持ちでおります。将来を誓った上で、佐竹様と今までどおりにお付き合いをさせていただきとうございます」

 そして、深く頭を下げた。

「申しわけありません、おばあさま。お見合いのお話が来てしまってからこのような勝手なこと……お恥ずかしい限りです」

「それはそうね。困ったことです」

 不思議と、祖母の声に怒りの色はなかった。

 しかし、かといって優しい風情はひとつもなかった。


「このような事態です。この度のお見合いのお話は、お断りせざるを得ないでしょう。当家としましても、このような浮わついた気持ちの娘を見合いの席に出すわけには参りません。お相手様への失礼に当たりますからね」

 芯の通った女性だけが出せるような声で、凪子はまさに皇太后殿下が下々の者に言い渡すようにして言った。

「とは申しましても、是非とも確認しておかねばならないことがあります。よろしゅうございましょうか、佐竹様」

 再び話が宗之のほうへ戻って、馨子は膝の上に置いた手をぐっとまた握り締めた。

 何の話が始まるのかは、火を見るより明らかだった。


「佐竹様。当家はご覧の通り、本来であれば家を継ぐべき嫡子がおりません」

 その話が始まった途端、はっとして母が目線を膝に落としたのが分かった。

 母、好江は、他家から嫁として入ってきた女である。

 明治以前のことならいざ知らず、祖母もいまのご時勢で母に対して「男子が産めない嫁など」とまで言うつもりはなかったようだったし、実際普段からも、どんな嫌味や当てこすりじみた言葉も発したことはなかった。

 そもそも、この凪子という女はそうした心胆の薄暗い、陰湿な性質たちではなかった。むしろそうした質をもつ女人の業のようなものを、心底では蔑んでいる風さえあった。

 しかし、たとえそうでも、母自身はずっとこの旧い家の中で肩身の狭い思いをしてきたのに違いなかった。


 凪子は母のほうはちらりと見ることもせず、淡々と言葉を続けている。

「我が家が家を存続させるためには、馨子には婿を取ってもらわねばなりません。今後のことを考えますと、あなた様とご両親様には、そのことを了解して頂く必要がありますが、それは問題ありませんか」

「…………」

 そこで、初めて宗之は沈黙した。

 やや目線を落とし、少し考える風情である。


(……そういえば。)


 馨子は、ここに至ってはじめて、これまで彼の家族構成についてきちんと聞いたこともなかったことを思い出した。それも無理からぬ話である。まさかここまで、話が一足飛びに進展するなんて思いもよらないことだったからだ。

 しかし、今にして思えば、もっと早く宗之にそうしたことを尋ねておくべきだったと馨子は後悔した。それが分かっていたなら、もっとずっと早くに、自分は宗之にこんな風に迷惑を掛けるまえに、彼のことを諦める選択をしていたかもしれないのに。

 馨子には、その頭痛をもよおすほどの張り詰めた沈黙が、ほとんど永遠にも思われた。


「……その件に関しましては」

 ようやく言葉を発した宗之の声は、やや沈んでいるようだった。

「申しわけございません。いまこの場ですぐにお返事するのは難しゅうございます。なにぶん、そちら様のご縁談の件も、先ほどお聞きしたばかりのことですし」

「それはそうでしょうね。無理のないことです」

 祖母はさほど驚いた風もなく言った。

「差し出がましいことをお訊ねいたしますけれど。佐竹様、ご兄弟はおありですか」

「……いえ。妹が一人、いるきりです」


 その場に、なんとも言えない沈黙が再びおりた。



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