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(やっと来られたわ、宗之さん)
地球とはまったくちがう、桃色の混ざりこんだ広い蒼穹のもと。
視界の端には、茫洋と巨大な惑星が白い巨体を晒して山の端から貌を覗かせている。季節は初夏の時候らしく、少し汗ばむような気温だった。
馨子は、ようやく訪れることの出来た、愛する人の眠る場所に佇んでいる。
ひどい秘密主義者の強面、長身のあの息子の目をどうにかこうにか晦まして、ついに自分も、息子とその友人の少年がかつて囚われたという世界にやって来た。
広大な敷地に、巨大な墳墓らしき建造物。
その正面に、あでやかな色彩の様々の花束がいまも変わらずに手向けられているという。
馨子だけを自分の馬「青嵐」に乗せ、ここへと連れてきた異界の王は、息子にそっくりのやや古風な美形の男子だ。しかし、息子よりはさすがに年上の落ち着いた雰囲気と、大人としての練れた色気を醸し出し、それはえも言われぬいい男に見えた。
息子は剣道に勤しむこともあってずっと短髪で通しているが、この男は非常な長髪である。それがまた、意外にもその精悍そのものの風貌に、よく似合っているのだった。
彼はいま、馨子の背後、三歩ほど下がった場所に黙したまま佇んでいる。
が、やがて途中で贖ったこの世界の花束を馨子に手渡すと、軽く会釈をしただけで、黙って踵を返して去って行った。
やがて、濃い紺色をした不思議な姿の馬に跨り、馬蹄の音だけを残して悠然と駆け去ってゆく。
さすが、大人の男である。
「……ふふ」
馨子は、少しその背中を見送って微笑する。
息子もいずれは、ああいう男になってくれるのだろうか。
墳墓のほうに向き直り、そこに渡された花を手向けて、しばし目を閉じた。
(……あなたは、彼とどんな話をしたの?)
墳墓に眠る人は、応えない。
でも、わかっていた。
彼なら、きっと最期まで、無様にじたばたすることもなく、ただ運命を従容と受け入れて、静かに旅立っていったのに違いないと。
自分の息子にそっくりのあの青年を、きっと本当の我が息子のように慈しみ、励まし、育てていたのに違いないと。
なぜなら、あの黒髪の青年王の中にも、確かに彼の面影を垣間見ることができるからだ。きっとあの青年王も、彼を実の父のようにして、心から慕っていたのに違いない。
そうでなければ、卑しくも一国の王たるあの男が、馨子をここまで丁重に、敬意を持って扱うわけがないからだ。それもこれも、自分が彼の妻であるからに他ならない。
(……だって、あなたは宗之さんだもの。)
馨子の頬には、涙はない。
そのようなものは、とうの昔に枯れたからだ。
佐竹宗之。
馨子が、生涯でただ一人、愛しぬくのだと誓った人だ。
十代のあの頃、旧い家のしきたりや親戚連中の頑迷固陋な言葉にがんじがらめになり、なにもかもにうんざりして、抜け殻のように過ごしていたあの時。
そんな馨子の前に、舞い散る桜とともに現れたのが、佐竹宗之という青年だった。
◇
馨子の家は、本当か嘘か知らないが、元をたどれば江戸時代以前まで遡れるという、それは旧い家だった。
明治になって急に落ちぶれた、いわゆる華族と呼ばれた旧家で、その後は持っていた土地や屋敷でどうにか食いつないでいただけの家だったようである。そうした旧い家にありがちな話だが、一族には商才に長けた者は誰もいなかった。
しかし、だからといってそこに生息する人々の矜持が減退するということは欠片もなく、旧態依然とした古いしきたりによって、家族は日々、みな年嵩の人々のいう事や顔色を窺うようにして生活していたものだった。
馨子の記憶の中のその家には、色がない。
白と、黒と、濃い灰色のイメージしかないのだ。要はそのぐらい、馨子にとってその場所は息が詰まるような居場所だったということだろう。
たったひとつの色らしい色といえば、それは、彼女の妹だけだった。
馨子は、妹と二人だけの姉妹である。
妹は櫻子といって、馨子よりも三つ年下だった。
長身で派手な顔立ちの馨子とはちがい、櫻子はまさに花壇に咲き乱れる花のような、甘く可愛らしい容姿の娘だった。性格もそれにふさわしいもので、ごく優しく、多少気が弱くて、それこそ出逢った男性の興味をひと目で一身に引いてしまうような、はかなく可憐な少女だった。
一方の馨子は、一応旧家の娘として幼い頃から教育されてきてはいるので、立ち居振る舞いや言葉遣いこそ「お嬢様」としてのそれだったけれども、気性はとてもそんな生易しいものではなかった。
一言でいってしまえば、「強烈なお転婆娘」だ。
こんな古色蒼然たる旧家の檻に閉じ込められて大人しく年をとっていくような、そんな女では決してなかった。
幼い頃から、教育係の乳母やら家庭教師やらがちょっとでも目を離すと、男顔負けの剣筋で木刀を振り回してみたり、裸足で庭を駆け回って木登りに打ち興じたり、近隣のガキ大将と正々堂々と渡り合って、しまいには大泣きをさせ、土下座させるまでやりこめたりと、それはもうやりたい放題、暴れ放題の凄まじい娘だった。
一方の櫻子はといえば、そんな極端に激しい性格の姉のそばで、いつも姉を心配しては目に涙をいっぱいに溜めて震えているようなことが多かった。彼女の趣味はごく家庭的なものがほとんどで、料理に手芸、ピアノに茶道に華道といった、良家の娘らしいものばかりだった。
家の者らはこの馨子には手を焼いていたが、それでも旧家の娘として「いずれは婿を取って家を継げ、それだけしてくれれば文句はない」とばかりに、ある程度は大目に見てくれていたようだった。
馨子自身も、特にそのことには不満はなく、「そういうものか」ぐらいのことで、やがて親が見繕ってくるのであろう、どこのだれとも知れぬ男と一生添い遂げるほかないのだろうと、ぼんやりと考えていただけだった。
第一、自分がそうしなければ、可愛い妹にそのお鉢が回ることは明らかだった。
馨子のその性格からして、そんな「敵前逃亡」まがいの真似は、決して許せることではなかったのである。だから、馨子は無意識のうちにも、敢えてそのことについて深く考えることをしなかったのかも知れなかった。
しかし。
その春は、巡ってきたのだ。
馨子が、生涯決して張り合おうとは思わなかった、いやその出逢いの初めから、決して勝てないことのわかっていた、その控えめな、姿勢の良い青年の現れた、春の日は。