アリス VS パンデミック! その7
どうやらキリコ先生はその名前が示すとおり、闇の悪徳医師だったらしい。
「それにしても急に百億だなんて言われてものぅ」
唸る新子さんに代わって、照沼さんがドスンと机に拳を叩きつけながら答えた。
「わかった! 払ってやろうじゃないの百億!」
「えっ!? 照沼さんって実は超資産家だったり!?」
得体の知れなさでは負けていない、こちらはマッドサイエンティストだ。闇の商売で稼いでる可能性もなきにしもあらず。そう思って僕は尋ねたが、ひくつく口の端をキリコさんは見逃さなかった。
「駄目ですよ百億ジンバブエドルとか。ちゃんと円で払ってもらいます。まぁ米ドルでもいいですが」
「あー! ばれた! てかキリコちゃん、冗談も大概にしてよ。株や債権ならともかく、そんな現金持ってる人なんているはずがないじゃない」
「あぁ、言われてみればそうですね。いや現ナマって言葉を使ってみたかっただけなんです。じゃあそうだな、幾らならあります?」
「ほら、今って消費税還元あるじゃない? それでここんとこ電子マネーしか使ってないから、お財布の中には一万円くらいしかないのよね」
「じゃあそれでいいです」
「いいのかよ!」
僕と新子さんは同時に突っ込んだが、キリコさんは再び眼鏡の位置を直して光源に光らせつつ言った。
「構いませんよ。なに、私もそこまで悪魔じゃない。しかしアリスが復活したなら、間違いなく九十九億九千九百九十九万円は戴きます。それでよろしいですかな?」
うぅむ、と唸る照沼さん。そこで新子さんはキリコさんだけ全ミュートにして言った。
「そもそもが怪しい話じゃけど、なんかこの人企んでるじゃろ」
「間違いねぇ。こいつは頭おかしい」と、照沼さん。「けど他に手もないしねぇ」
「けど百億なんて、アリス復活しても払えないんじゃ? 修理パーツの金だってまともに払えない状態なのに」
僕の疑問に、照沼さんも悪魔的な笑みを浮かべながら答えた。
「まぁいいんじゃない? どうせアリスが元に戻れば、一介の医者なんてどうにだって出来るんだから」
「いいんすかそれ」
「らくしょーらくしょー。世の中気合いよ!」そして照沼さんはミュートを切った。「わかったわキリコちゃん。アリスが復活したら百億払う!」
「いや九十九億九千九百九十九万円です」
「それもういいから。じゃ、早速始めるわよ! ざっと状況を説明するから、ここにTeraTermで繋いでくれる?」
そう照沼さんはアリス・インターフェイスのアドレスをキリコさんに送ったが、彼は首を傾げた。
「TeraTermって何です?」
これは相当に時間がかかりそうだ。
それでも実際にウィルスの分析を担当している人からアドバイスを受けられて、照沼さんもだいぶ助かったらしい。
「つまりこのウィルスは細胞の受容部であるACE2受容体を欺すことによって内部に侵入し、RNAを注入してしまうのです。するとその細胞はウィルスを際限なく生み出すことになってしまうんですね」
「あー、なるほど、それで増殖の根っこがわからなかったのか。RNAまで弄られちゃってたのねぇ」
「というか私、この分野は専門ではないのでご教授願いたいんですが、普通の人工知能も細胞のACE2受容体やRNAまでシミュレートするものなのですか?」
「するかよ!」
何故か新子さんがぶち切れていたが、僕も同感だ。普通の神経回路網は細胞と軸索の動きを簡単な式で置き換えるだけで、そんな細かい仕組みまで再現しない。博士論文のネタにするには異次元すぎる仕組みだ。とても僕ら程度じゃ手に負えない。
とにかく大まかな仕組みがわかったところで、照沼さんとキリコさんは対策を検討する。その点、アリスは完全デジタルな存在だというのが有利になる。問題のRNA配列をアリス・ネットワーク内で検索し削除していけば、原理的には元通りになるはずだ。
「んな簡単に出来るわけがないじゃない」
駄目出しされて、僕は首を捻った。
「なんでです? 出来そうじゃないですか」
「あのね、アリスの神経細胞が何個あると思ってんの。とてもいっぺんに書き換えられるはずないじゃない。いっぺんに書き換えられなかったら細胞間の不整合が起きて爆発しちゃうじゃない」
いや、爆発はしないと思う。それでも何か面倒な事になるのは十分にわかる。その辺を上手いことやる方法をなかなか見つけられず、照沼さんとキリコさんによるアリスワクチン開発には数日を要した。アリモの不具合情報はどんどん増えていっていて、ついにあまりの加熱で火を噴いたという報告がSNSでバズってしまった。
「いやいや、いくら加熱したって火を噴いちゃうような設計してないと思うがのう」
確かに新子さんの推理通り、これは例のアンチアリモ勢の工作である可能性が高い。それでもこのままでは形勢は不利になるばかりだ。
「よっしゃ! 出来たわよワクチンが!」
ようやく何とか出来たらしい。照沼さんは一連のコードをカプセルにして、氷嚢を額に乗せて寝込んでいるアリスの口に突っ込んだ。
「さて、吉と出るか凶と出るか」
「凶?」
呟いた照沼さんに僕と新子さんが問い返した時、アリスはがばっと布団から起き上がり、目をぐるぐるさせてデスクトップ上を走り回りはじめた。
「う、うげえええ! うがー!」
「お、おいおい大丈夫なのかこれ」慌てて尋ねる新子さんに、照沼さんは何故か苦笑いで冷や汗を流していた。「おい! またおまえ何か適当なことやったな!?」
「て、適当だなんて失礼な! でもほら、急いで作ったから! そういうこともあり得るでしょ!」
「そういうことって?」
僕が尋ねた時、アリスは急に動きを止めた。そして何事かと見守る僕らの前で表情を神妙にすると、呟いた。
「遼河雪融
富山花開
同気連枝
共盼春来」
「な、何事? 中国語?」
鼻の下にラーメンマンのような髭まで生えている。照沼さんは大きくため息をついて言った。
「やっぱ駄目かー」
「まぁ無理だと思ってました」相変わらず飄々と語るキリコさん。「中国が展開した抗体情報をそのまま突っ込んでも無理に決まってますよね」
「さっさと元に戻せ!」
新子さんは叫んだが、それからまともなワクチンが出来るまでの一日くらい、世界中のアリモが中国語を話すことになった。
「ほらほら、やっぱアリモ帝国やばいじゃん。思いっきり中国にハッキングされてるじゃん」またトランプがTwitterで呟いていた。「つかこんなアリモ必要な時にアリモハッキングするとか、中国やばすぎじゃん。色々追放とか封鎖とかするわ」
「相変わらずわけわかんないこと言ってんなトランプ」中国は結局体面が重要だ。濡れ衣だと弁解すればいいものの、絶対に頭を下げようとはしない。「じゃあいいよ。こっちもマスクとか色々輸出止めるし関税もかけるわ」
マッドサイエンティスト照沼の適当な仕事のおかげで、国際平和が危うくなってきた。まぁ元々平和じゃなかったけれども。