アリス VS パンデミック! その2
「ヤバいかもしれない」
大学病院の先生に宣告されたのは、それから一週間後のことだった。最初は町医者に「とりあえず薬出すんで様子見ましょうねー」と言われて連れ帰ったけれども、熱は一向に収まる気配がなく、加えて喉からヒューヒューと音を出し始めて、もはや様子を見ている場合ではないと判断した。すぐに救急車を呼ぶと照沼さんは色々な機械にかけられて、即入院、人工呼吸器を装着された。
僕は病院に来たこと自体数年ぶりで、すっかり様変わりしてしまっていたのに驚いた。職員の半分はアリモになっていて、受付や患者の誘導などを行っている。それでも看護師や医師は免許の関係もあるので、未だに普通の人間に限られているようだった。
僕と新子さんは一応毎日照沼さんの様子を見に来ていた。そして三日目になって、親族と勘違いした先生に呼び出されたという具合だ。
「ヤバい? やっぱ死ぬの?」
思わず言った新子さんに、先生は驚くほど冷静に真面目に返した。
「死ぬかも」
「真面目に?」
「うん。僕らも」
何を言われているのかわからず硬直する二人に、先生は意識のない照沼さんを見下ろしつつ言った。
「あと生き残れれば英雄になれるかも」
「意味がわからないんですけど」
どうにも変人の気がある先生だなと思いつつ僕が尋ねると、いかにも大学病院の先生という風な鋭い目を細め、遠くを見るような表情をする。
「ERって医療ドラマ、知ってる?」
「はぁ。まぁ、名前だけなら」
「面白いよ? せっかくだし見てみなよ。これから相当暇になるから」
「っていうと……?」
唐突に現れたのは、全身を防護服に包んだ数人だった。彼らは僕と新子さんの腕を捉え、外に促す。すっかり新子さんはテンパってしまい、オロオロとしながら身を引いた。
「え? なになに? ちょっと待って?」
「僕らは新種のウィルスに感染した。だからこれから完全隔離。初体験だよね? 僕も。なんだか興奮しちゃうよね」
その割に冷静な表情を崩さず、先生はカルテの隅に何かを書き付けて僕に差し出した。英数字の羅列が書かれている。
「え、えっと、これは」
「WiFiのパスワード。じゃあごゆっくり」
目が点になるとは、まさにこの事だ。
僕は照沼さん同様色々な機械にかけられ、血を採られ、やはり完全防護服の先生たちに具合はどうだとかここ一週間何処に行ったかなどと質問攻めに遭う。そして高そうな個室に放り込まれると、僕は新子さんに通話を入れた。どうやら新子さんも同じ目に遭ったらしい。
「しかし何でこんな大げさななんじゃろ。そんなヤバいウィルスなんじゃろか。矢部っちはどっか具合悪い?」
「むっちゃ眠いです。朝までゲームやってたんで」
「百パー関係ないな。しかし参ったの。私、まだ輪講の準備が出来とらんのじゃけど」
「僕もレポート今晩で片付けようと思ってたんすけどね」
だがそんな日常の心配は、すぐに吹き飛んでしまった。学校から次々とメールが飛んできて、ウチの研究室は閉鎖、ここ最近僕と新子さんに接触した人はすぐに連絡するよう指示が出ている。
これは相当な事だ、とようやく体感し始めたのは、夜になり窓の外が騒がしくなってきてからだった。ブラインドに指を突っ込んで外を見下ろしてみると、カメラやマイクを携えた数十人の報道陣が屯している。慌てて窓から離れ、ベッドの上に飛び乗った。
「ヤバいですよ新子さん、これ真面目にヤバそうですよ」
「うむ。さっきからネットのニュース漁っとるんじゃけどな。なんか先月から中国で得体の知れん肺炎が流行ってるらしい。あの国で隠蔽されずに騒ぎになっとるんじゃから、相当なもんじゃろな」
「マジすか。けどこれじゃあネットの総攻撃に遭って何が何だかわからないうちに人生終了しちゃいますよ!」
ふむ、と新子さんは唸って、パチンと指を鳴らした。
「こういう時こそアリスの出番じゃな」
その手があった。
すぐに僕はノートパソコンを開いてアリスのコンソールを起動させる。ここのところ特に用もなかったのでご無沙汰していたが、事情を説明したテキストを放り込むとすぐに反応があった。勢いよく病室のドアが開かれると、一人の看護師さんが飛び込んでくる。
「矢部っち、死ぬの!?」
叫んだのは中肉中背の若い女性だった。ピンク色の看護服の胸には若葉マークが付けられている。すぐに僕は察して応じた。
「死なない。てかいたんだ、看護師アリモ」
アリスの必殺技、その辺を歩いているアリモへの乗り移りだ。人間同様の外見に作られた高価なタイプ、マーク2アリモを掌握したアリスは、すぐに肩を落とし大きなため息を吐いた。
「いやー、この通り見習いさんよ」と、胸の若葉マークを指す。「やっぱ人命扱うとなると敷居が高くてねぇ。全然許可が出ないの。どうしてもって言うなら五年くらい見習いしろって厚生省に言われてさぁ。けどやっぱ辛いわ。看護長は京都人ばりな高度な皮肉ばっか使ってくるし、セクハラ爺さんはお尻触ってくるし――ロボットのお尻を触って何が楽しいのやら」そこで思い出したように、両手をガチンと打ち合わせた。「ってそんなのはどうでも良くて! 矢部っち大丈夫なの?」
「いまんとこ大丈夫だけど」
とりあえず今は個人情報がマスコミに漏れて大騒ぎされるのが一番の問題だ。それを説明するとアリスはすぐに請け合い、目を閉じて何処かと通信する。
「よし、とりあえず矢部っちと新子ちゃんの個人情報は封鎖したからダイジョブ」
「助かった。死ぬかと思った」どんなウィルスだか知らないが、マスコミやネットの方が余程怖い。「あとの問題は照沼さんだけど。何か聞いてる?」
「何を?」
「照沼さん、発症しててICUに入ってるんだけど」
「まじで!?」
叫んだかと思うと、アリスは部屋を飛び出していく。新子さんにSkypeで説明して一緒にアリスのチャネルに接続すると、彼女は丁度完全隔離といった病室に飛び込んでいくところだった。
「お母さん、大丈夫なの!?」
治療の甲斐あってか、照沼さんは意識を取り戻していたらしい。未だに酸素マスクを装着していたが、突然の珍客に驚いて身を跳ねさせる。
「それ止めてって言ってるでしょ」
マスクの中から弱々しく言う。すぐにアリスはベッドに取り付こうとしたが、その前に一人の医師が立ち塞がった。あの変人医師だ。どうやらアリスの事は知っているようで、慣れた調子で言う。
「それがあったかー。最初からアリスに看護させとけば良かったんだ。馬鹿だねー」
「だから私は有能だって言ってるじゃないのキリコちゃん」
「ごめん、看護試験機の存在を忘れてた。もう百パー忘れてた。ロボ看護師とかベタすぎて面白くなかったから」相変わらず妙なことを言いつつ、アリスを照沼さんの脇に連れて行く。「まぁいいや、丁度話を聞こうとしてたとこだったんだ。一緒にいて? それで照沼さん、多少は話せそう?」
「たぶんー。てかどうなってるのこれ? ただの風邪じゃないの?」
喘ぐように言う照沼さんに、キリコさん――医者にしては物騒な名前だ――は眼鏡の位置を直し、何か強大な感情を抑え込むような調子で言った。
「ただの風邪じゃない。もう症状がヤバい。四十代とはいえ、あなたのような普通に健康っぽい人が一発でICU送りになるレベル。薬も何が効くかさっぱりわからない。あともう国内で何人か似た症状の人が出てきてる。むっちゃ感染力も高い。つまり照沼さん、あなたは最初期の感染者として、非常にレアな体験をすることになるのです。これから徹底的にプライベートな人間関係や移動経路とか諸々をほじくり出され、色々な薬を投与されたり体細胞を分析されたりな感じの人体実験の対象となるのです」
「真面目に!? 超楽しそう!」
「ふふっ、そう言ってくださると思っていました。出来れば私と代わって欲しいくらいだが――」そして脇に抱えていたiPadを取り出す。「で、とりあえず感染経路とか追跡したいんですけど、ここんとこ何処にいました?」
「えっとね、中国に行って、そこからドバイ、イスタンブール、あー、この辺から何か熱っぽかったかな。でもまぁ気にせずカイロ、ローマ、パリ、そんでニューヨークからハワイに寄って――むっちゃ楽しかったー。もう毎晩ひたすらその辺の人らと酒飲んでた」
何故だかキリコさんはどんどん喜色を強くしていく。
「そ、それで日本に戻ってからは?」
「えっと、成田から上野に行って博物館巡りしたでしょ? で宝塚行って、ディズニーランド行って、嵐のライブにも行ったでしょ? あと何処行ったっけ? あ、プロレス見に行ったわそういえば。あとはボカロ同人にも顔出したし――」
引き続き照沼さんは色々なイベントをあげつらったが、途中でキリコさんは諦めてしまったようで、iPadを脇に置く。そして震える手で眼鏡の位置を直すと、アリスに囁いた。
「パンデミック確定だ――まさか現代社会でこんな事が起きるなんてね。これは間違いなく、世界がひっくり返るよ」
なんでそんなに楽しそうなんだろう。ていうかいくら何でも大げさなんじゃあ、と僕は思っていたが、事はどんどんキリコさんの予言した通りになっていった。