仁川上陸作戦
極東戦線についてです。
ソビエト連邦のドイツへの宣戦布告と同時に亜細亜でも中華人民共和国と朝鮮人民共和国が東ロシア帝国と大日本帝国に宣戦布告をした、これはソ連がドイツを攻めている時に後ろから東ロシア帝国に刺されないようにするためだった。
東ロシア帝国は建国以来日本やドイツ、アメリカから支援を受けて国内で取れる鉱物などで重工業国となっていた、また他国との共同開発も多く日本、ドイツ、東ロシアで採用された戦車はドイツと東ロシアの共同開発で出来たもので、航空機もドイツと同じものが多くドイツと東ロシアの新型戦闘機Fw190は液冷エンジンが使いにくい寒冷地である東ロシア帝国の技術者が中心となって開発した空冷エンジンの機体だった。
Fw190
全長 10m
全幅 15m
航続距離 1900km
武装
20mm×2、30mm×1
ドイツと東ロシアの共同開発した戦闘機、液冷が使いにくい寒冷地である東ロシアでの運用のため空冷エンジンの使用を前提として開発されている、ドイツ軍では液冷エンジンを使用する。
海軍のほうも日本に艦船を発注しているため秋月級や建国の際に日本から譲ってもらった金剛級などを保有していた。
しかし、開戦と同時に中国、朝鮮両軍が人海戦術を使い国境を越えてきた、そのため国境近くのウラジオストクにいた東ロシア海軍の全艦艇は日本の大湊に移動した、ウラジオストク侵攻軍に金剛級が零式弾を使い大損害を与えた、この事件は東ロシア防衛戦での大きな分岐点だったと後の歴史家は言う。
何故なら東ロシア帝国首都ニコライスク(ヤクーツク)は日本がイタリアに沈められた伊勢級戦艦の三連装41センチ砲を六方に油圧式旋回要塞砲として配置し要塞砲の周囲にはフリックタワーを配置し要塞砲の弱点である航空機に備え、六方の要塞砲を城壁で繋ぎニコライスクはまるで中世ヨーロッパの城塞都市のようだった、街の外にも放射状に何重もの戦車壕が築かれていた。
そして、ニコライスクを目指して侵攻してくる中国、朝鮮連合軍に対してそれまでは平地にあるため三式弾による対空砲として使う予定だった要塞砲が零式弾を用いた対地兵器として使用されたからだ。
対空用に最大仰角が70゜にまで挙げられるようになっていた要塞砲はカ号観測機の指示の元、侵攻軍に零式弾を浴びせ続けた。この時、要塞砲は60kmの地平線の彼方から攻撃していたため着弾地点にはクレーターが出来るほどの威力だったという。
しかし、中国、朝鮮連合軍も殺られっぱなしではなかった。
ソ連より提供されていたYak9やIl2で要塞砲に攻撃を行なってはいたがニコライスクの城壁内にあった飛行場から完成したばかりのFw190やBf109が迎撃に上がり、伐ち漏らした機体もクラックタワーに備え付けられたレーダー誘導式対空ミサイルや88センチ対空砲に撃墜されていた、中には要塞砲が放った三式弾に落とされた機体もあった。
東ロシア帝国の危機に日本は朝鮮や中国の基地に空爆を行なっていたがあまり効果は無く上陸作戦を行うことになった。
目標は朝鮮人民共和国首都ソウルや第2の都市平壌に近い仁川だった、朝鮮戦争の際にアメリカなどの国連軍が成功率0.5%という確率ながら上陸を成功させ国連軍反撃の第一歩となった場所である。
何故、仁川かというとこの地球上の海岸線の内上陸作戦が出来る場所はわずか3割と言われるほど少ない事と、史実での仁川上陸作戦のげんを担ぐためだった。
1941年9月12日
仁川上陸作戦が開始された、上陸兵力はコルシカ島上陸で活躍した海軍陸戦隊三師団だった。なお、海軍陸戦隊が橋闘堡を築いた後に主力である山下奉文中将率いる機甲師団が上陸しソウル、平壌を電撃的に占領し朝鮮を降伏させ朝鮮人民共和国建国の際に亡命してきていた朝鮮国王を君主とした立憲君主制の国を作ろうとした。
勿論、日本は大陸には手を出さないと宣言しているので、建国したら全軍で中国に攻め入り台湾に亡命政府を置いている蒋介石に占領地を譲り中華民国を復活させるのが今回の作戦の概要だった。
改装を終えた飛騨、摂津が上陸支援とし上陸地点に砲撃を行い飛騨、摂津が旗艦を務める第三、第四機動艦隊の空母長門、陸奥、蒼龍、飛龍、雲龍、天龍が航空支援を行い、さほど反撃を受けずに橋闘堡を築き上げ、山下中将率いる精鋭機甲師団が上陸わずか3日で朝鮮人民共和国を降伏させた。この時の活躍により山下奉文中将は大将に昇格し朝鮮出兵の時に虎を退治した加藤清正の伝説から“今加藤”やらその後の中国戦線での活躍から“亜細亜の虎”などと呼ばれることになる。
1941年9月16日
前日の朝鮮人民共和国降伏、高麗共和国建国のニュースに沸く世界中にあるニュースと共に戦慄が走った。
“イギリス本国艦隊、ソ連黒海艦隊を待ち伏せしドーバー海峡で海戦を行いソ連黒海艦隊に大敗す”
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