古代 2
大きな音をたてて扉が開き、リウヒは瞬時に目を覚ました。あの老人が来たと思ったのである。枕の下に用意していた別珍の袋を素早く左手で掴むと、低い声を出した。
「誰だ」
「トモキです」
薄布が捲くられて、青い顔をしたトモキが息を弾ませていた。
「謀反が起きました。ここから逃げます。急いでください」
驚いている暇はなかった。急いで別珍の袋を帯下に差し込む。二人で部屋を飛び出した。
「どこに向かうんだ」
「城下へ!」
叫び、走るトモキの後を必死になってついてゆく。外にでて、息を呑んだ。本殿が燃えている。炎が絶叫するように、天に舞う。まるで紅い巨人が喜んで踊り狂っているようだった。
いきなり、地響きのような音が聞こえた。思わず振り返ったリウヒは声を上げ、立ち止まってしまった。
本殿が崩れた。紅い巨人は、調子に乗って足を踏みならす。
トモキに促され、再び走りだした。正門をくぐりぬけ、長い階段を降りる。足が縺れそうになるのを堪え降りきると、そこは蜂の巣を突いたような大騒ぎであった。みな、一様にどこに向かえばいいのか分からず、どうしたらいいのかも分からず、大声で叫びながら右往左往しているだけだ。下端の者たちだった。
「外へ! 城下へ避難せよ!」
リウヒが叫ぶ。彼らはうろんな目で自分を眺め、それから弾かれたように大門へ向かって走り出した。夢中で走っている内に、息が上がり始めた。気が付くとトモキがいない。
立ち止まろうとした瞬間、ものすごい勢いで上から掴まれた。一瞬息が止まって、体が恐怖に震える。身をよじって暴れると、後ろからトモキの声がした。
「暴れないでください。今落ちると死にますよ」
猛然と走る馬の上に押し込められたリウヒは、安心したが密着する体で悪寒が止まらない。そのまま、馬は真っ直ぐに大通りを走って行った。
城下の野次馬を蹴散らして、トモキは馬を走らせる。途中、不思議な衣を着た三人組を曳きそうになった。
「あっ!」
彼らは泡を食ったように、声を上げて逃げ惑った。一瞬で遠ざかる。
トモキを見上げると、今まで見たこともない必死な形相をしていた。怖いくらい真剣な顔だった。
この人のそばにいれば、わたしは大丈夫。
しかし、その心とは裏腹に体の震えは止まらなかった。
夜が明けた。都から大分と離れて、トモキも安堵したのだろう、馬を歩に変えた。
が、リウヒはそれに気が付かないほど、苦しかった。震えが酷くなっている。息苦しい。ほとんど肩で息をしていた。
トモキが馬を降りて手綱をとった。とたんに息苦しさは消えた。呼吸が楽になる。
その代り、悲しみがじわじわと広がってきた。トモキは好きだ。大好きだ。暗闇に閉じこもっていた自分の手を引いて、光の中へ導いてくれた。ものすごく感謝もしている。だけど、体が拒否をする。しかし、それをどういっていいのか分からずに、黙って下を向いているしかできなかった。
ふと、後ろを振り返った。
美しい天の宮は消滅している。ただ黒い煙が、立ち昇っているだけである。
「宮が……」
リンたちは無事なのだろうか。カガミたちは、シラギは。
昨日の昼は、あんなにのんびりしていたのに。リンたちと、恋の話をして笑っていたのに。
馬の速度が上がった。トモキが手綱を引っ張っている。
「これから、どこへ向かうのだ」
「シシの村へ」
トモキがリウヒを見上げて、にっこりと笑った。
「ぼくの生まれた家へ」
***
「生きててよかったー。マジで死ぬかと思った……」
リウヒがまだ言っている。カスガは動悸が未だ止まらない。ほとんど一睡も出来なかった。
昨夜の火事をよく見ようと大通りにでたカスガたちは、ものすごいスピードで突進してきた馬に轢かれそうになった。まるでトラックが突っ込んできたような迫力に、ちびりそうになった。慌てふためいて逃げたものの、馬はそのまま走り去っていった。
だけど。
ベッドに胡坐をかきながら思う。
あの火事は、ジン国の戦のものではない。それならば、この町も焼かれているはずだ。そこでカスガは愕然とした。
ここは、いつの時代のティエンランだ。憧れの国にいる事に浮かれて、一番大事な事を忘れていた。
火事。謀反。間一髪逃げた王女。
「ねえ、馬に乗っていた男の人、カスガにそっくりだったよね」
「あのスピードで、よく男の顔なんて分かったな」
「わたし、動体視力はいいんだ」
「世界に自分とそっくりの……おい、カスガ! どうした!」
喘ぐように、カスガは呼吸していた。喉がヒューヒューとなっている。
顔色を変えて駆け付けた二人に、苦しそうな声を出す。
「ねえ、リウヒ。昨日の馬には、男一人だった?」
「えっ? ええと、ええと……ううん、もう一人いた。二人乗っていた」
「そのもう一人は、どんな人だった……?」
「ええっ? どんなって……」
「どんな人だった!」
ほとんど吠えるようなカスガに、リウヒは驚いて身を引き、シギが庇うようにリウヒの前に腕を出した。
「落ち着けよ、お前どうしたんだよ」
「……な、長い髪だった。多分女の子だと思う。男の人に抱きかかえられていた」
「リウヒだよ……」
シギとリウヒはきょとんとして、目を合わせた。わたし? とリウヒが自分を指す。
「違う。王女だよ。ぼくらは伝説の王女とすれ違ったんだ」
突然カスガが絶叫して、突っ伏した。シギとリウヒは飛び上って、ヒッシと抱き合った。
「あああ、もう! ケータイで撮っとけばよかった! ぼくのバカバカバカバカ!」
「カスガ、カスガ。落ち着いて」
「あの速さで撮れるわけないだろう。下手したら轢き殺されるところだったんだぞ」
二人の声も、カスガには届かなかったらしい。突っ伏したまま両手で頭をポコポコと叩いている。
しばらくたって、ようやく我に返った。
「ごめん。ちょっと興奮のあまり……」
「うん、びっくりした。色々と」
「おれも」
だけどさ、とシギがいぶかしむ。
「あれが王女とは限らないだろう。ただ、今の時期に宮廷から逃げたってだけで」
「いや、教育係のトモキって人が一緒に馬で逃げたんだよ。王女の兄的な存在で、その成長に一役買ったんだ。後に、初の民間出の宰相となる。トモキの弟が、これまた……」
「カスガ、話がずれている。昨日の馬に乗っていたのが、トモキと王女だったわけ?」
「そう」
「じゃあ、カスガはそのトモキにそっくりってこと?」
「そう……なるのかな。ぼくはちゃんと見たわけじゃないから、分からないけど」
「おれも全然分からなかった」
もしかしたら、カスガの遠い前世かもしれないねー、とリウヒが笑う。
「さてと。朝飯くって、帰ろう」
シギが立ちあがって伸びをする。
「そうだね。早く帰らなきゃ」
リウヒも腰を上げた。
「なんで帰るのさ」
同時に二人が振り返った。うろんな目でカスガを見ている。
「今から面白くなるのに、なんで帰るの」
「帰るよ! 当たり前でしょう! わたしたちの住む所は、現代であって古代じゃないでしょう!」
「おれも、おれの生活があっちにあるんだよ! 学校もバイトもあるし、母親だって向こうにいるんだよ!」
じゃあ、二人で帰ればいい。とカスガが腕を組んで、どっかりとベッドに座り込んだ。
「もう、カスガ。我儘言わないでよ。帰ろうよ」
ほとんど泣きそうな声でリウヒがカスガの襟を掴んで揺さぶったが、動かない。
「ねえ、お願い」
動かない。
「ほっとけよ。いこうぜ」
突き放すようにシギが言って、リウヒの手を引いた。
「じゃあ、いくからね。本当にいくからね」
「うん。いってらっしゃい」
さすがにリウヒはムッとしたらしい。ツンと横を向くと戸の向こうへ出て行った。
数秒後、ものすごい勢いで帰ってきた。
「どうして、一緒にこないの!」
「ぼくはここにいるっていったろう。早く行きなよ。シギをまたしているんだろう」
「カスガぁ……」
「向こうに帰ったら、ぼくの両親によろしく言っておいて」
「もう知らない! 馬鹿! 馬鹿カスガ!」
涙をためて、走って行ってしまった。
窓からのぞくと、通りで泣いているリウヒの肩を抱きながらシギが何かしら言っている。本当にこうして見ていると、あの二人は恋人同士みたいだ。中々にお似合いじゃないか。そのまま歩いて行った。どうやら朝食を取ることを忘れているようだ。あのリウヒが。
カスガは伸びをして、深呼吸をした。空気がおいしい。夏真っ盛りだというのに、纏わりつく湿気がなくてカラッとしている。
朝ごはんを食べて、その辺を探索しよう。飽きたら、宿の親父を手伝おう。
弾むような足取りで、階下に向かう。
あの二人は、きっとここに戻ってくる。現代に帰れずに。何となくだが、確信に近かった。
***
何をやっても無駄だった。二人で走ってみても、立ってみても、ジャンプしてみても、後ろ歩きで歩いてみても。やけになってスライディングまでしてみた。
ただ、服が泥だらけになっただけだった。
「やっぱり三人そろわなきゃ、無理なのかな」
「多分」
洞窟の中で、疲れ果てて座り込んでしまった。シギも壁にもたれている。
カスガの馬鹿。
腹ただしいような、泣きそうな悲しみが胸を刺す。あんなカスガ、初めてだった。生まれて初めて拒否された。
「おい、血が出てるぞ」
その目線をたどると、腕に擦り傷ができて、血が滲んでいた。
「ああ、多分唾でも付けときゃ治る……」
と、シギがスタスタとやってきて、リウヒの目の前にしゃがんだ。腕をとって、いきなり舐めた。
「な、なにするの!」
顔に血が上るのが分かった。手を引こうとしても、びくともしない。
「大丈夫だから! 後で洗えばいいから!」
「ああ、こら、暴れるな。擦り傷甘くみていると、膿んで痛い目みるぞ」
「えっ……」
それは嫌だ。しぶしぶ、腕の力を抜いた。
シギの舌は、自分の腕を味わうようにゆっくりと舐める。奇妙な感覚が体を駆け巡った。
「んっ……」
声が出た。男の口は半分開いていて、舌が出ている。白い肌の上を這っている。
それは大層色気があって、リウヒの顔は赤くなった。心臓がドキドキして止まらない。
「あっ……、や……」
うおおい、なんて声を出しているんだわたしは! 思わず目を閉じてしまう。すると、舌の感覚はますます鋭くなって、奇妙な感覚もますます強くなってきた。
「なに? お前、感じてんの?」
目を開けると、シギがこちらを見ていた。例のからかいの目で嫌らしく笑っている。今度は恥ずかしさに、頭に血が上った。
「馬鹿! そんなんじゃない、ちょっとびっくりしただけで!」
「へえ」
腕を振り切ると、今度は素直に離れた。
「あの、ありがとう……。ねえ、どうしようもないから、とりあえずまた宿に戻ろう?」
「だな」
立ち上がると、リウヒに手を差し伸べた。
「何?」
「助け起してやろうってんだよ。親切心の分からない女だな」
「すみませんね」
素直にその手を取る。引っ張られて立ち上がり、二人は歩き出した。手を繋いだまま。
わたし、なんでこの男と手をつないで歩いているんだろう。からかっているのは分かっているのに、なんでいつものように怒れないんだろう。
空が遠く青い。ピールルルルーと鳥が鳴きながら呑気に旋回している。
多分、疲れてもうどうでもいいからだ。朝ごはん食べそこなって、お腹がとってもすいているし、好きでも何でもない男と手を繋いでいることくらい、腕を舐められた事くらい、どうだっていい。
心の隅っこに小さく芽生えた甘い気持ちは、無視することにした。