宮廷跡 2
駐車場に車を止めて、三人は弁当を持って歩き出した。世間はまだ平日だからか車は四、五台のみで人の気配もあまりなかった。蝉の大合唱だけが耳につく。
「暑いー」
「お腹空いたー」
テンション下がり気味のリウヒとシギに比例して、カスガは弾むような足取りで歩く。
「早くー。行くよー」
「何であいつはあんなに元気なんだ」
「ティエンラン大好きっ子だから……」
目的の場所は、山の中腹にある。そこまでは果てしなく伸びる大階段があった。黙々と登る。
「あのさ。変な気がしない?」
カスガの声に、リウヒも頷いた。
「昔、登ったことがあるような気がする。なんか早く上に行きたくて、すごく焦っていて、誰だ、こんな階段を作った奴はって思った」
「ぼくは、誰かの背中を見ながら、すごく誇らしげに登った気がする」
「おれは分からん」
「小学校の遠足でそんな事を思ったのかな」
「シギは遠足でこなかった?」
「来た。でも全然覚えてねえ」
階段の中ほどで、いったん息を整えて再び足を動かす。
登りきった先は、閑散とした風景が広がっていた。建物の後すらない。木々が生い茂って、大きな公園みたいな所だ。
わたし、後宮の方にいってみる。とリウヒは一人で歩きだした。昔、来た時もその場所に惹かれた。山の傾斜にあるにもかかわらず、小さな島が密集しているような小山の群れで、橋がいっぱいかかっていて面白かった。
一人でずんずん歩いて橋々を渡り、足を止めた。そこは少しだけひらけた所で、下の町がよく見える。そのまま歩を進め、ひらけた場所の先端に行く。
いきなり懐かしい感情が、足先からザアッと広がった。
延々と続く町、その奥に連なる山、そして端に見える海。
この光景を知っている。そうだ、わたしはこの光景を愛していた。
胸が絞られるような、血が騒ぐような変な感じがする。
ああ、それはさっきシギが海を見ながら言っていたではないか。
わたしの前世はここにゆかりのある人だったのだろうか。
「お前、こんな所にいたの」
声がして振り返った。シギがオレンジ色の頭をかきながらやってきた。
わたしは、この場面も知っている。デジャブ? でも確かに知っている。
心臓が跳ねて、ドキドキし出した。嬉しいという感情があふれてくる。
「いい眺めだな」
横に立って遠くを見る男の顔が、ふと変わった。何かを思い出すような。
「ねえ、何か変な感じがしない?」
リウヒが掠れた声を出した。
「わたしたち、ここで会ったことない?」
そんなはずはない。初めて一緒にここにきた。でも、確かに昔、ここに立って二人でこの景色を見た。遠い、遠い、遥かな昔。
シギが振り返ってリウヒを見る。
「変な事言うなよ」
その顔は普段の顔ではなかった。痛々しいような、呆然としたような。
「お前が変な事言うから、おれまで変な感じになってきたじゃねえか」
二人は見つめあったまま、動かなかった。
いかないで、と自分の中から声がする。それは泣いていた。泣きじゃくっていた。
お願い、わたしの前からいなくならないで。あなたがこのまま、わたしを残して去っていくのならば、一緒についてゆきたい。でも、それは叶わない。恋する男について行く事もできない。全てをかなぐり捨てて、ここを出て行く事はできない。
「あ……」
切なさが溢れ涙が出てきた。胸が締め付けられて、痛い。
シギの片腕がリウヒの腰に回った。いつものからかいの表情はない。切実なほど悲しい顔をしていた。
そのままゆっくりと引き寄せられた。リウヒもシギの背に手を回す。男の片手が自分の頬を撫でる。大切のものを触るように。手は顎へと滑り、静かに上げられた。リウヒが目を閉じる。
ああ、狂おしいほどあなたが好き。
二人の唇が重なった。何度も重なるそれは、次第に深くなってゆく。
その時。
「ママ、みてー。あの人たち、チューしてるー」
「こらっ! ミーちゃん、ダメでしょう!」
ハッと現実に戻った二人は目を見開くと、お互いを突き放すように離れた。少女が母親に引きずられながら、自分たちを見ている。
「えっ……?」
今、わたしは何をしていた?
シギを振り返ると、呆然として自分の口に手を当てている。その顔は真っ赤だった。
先ほどまでの、悲しいような痛いような気持ちはすっかり消え去り、段々とリウヒは混乱してきた。
今、わたしはこの男と何をしていた。キスをしていた。
愕然をへたり込む。
わたしの、わたしのファーストキスが、こんなナンパ野郎と……!
膝を折って座りこんだ放心状態の肩をシギが叩いた。
「おい」
「ぎゃーっ!」
悲鳴を上げて、飛び上がったリウヒはそのままアワアワとシギから離れた。
「お前。そんなに驚くことないだろう!」
「来ないで! お願い触らないで!」
「何だよ、さっきはノリノリでおれに抱きついて、キスしていたくせに」
「あれは……!」
あれはなんだったんだろう。あの痛いほど切ない気持ちは。いかないで、と言っていた。ついて行きたいけどここから離れられない、とも言っていた。
まるで誰かが乗り移ったような。
背筋がぞくっとした。そうだ、あれは自分じゃなかった。他の誰かだった。じゃなきゃ、誰がこんな男に抱きついてキスするものか。
「とにかく、来ないで、触らないで、あっち行ってスケベ男!」
手を振って叫ぶリウヒに、さすがにシギはムッとしたようだった。
「そんなんだから、男ができないんだよ。可愛くねえ女!」
「なによ」
「なんだよ」
先ほどの甘い雰囲気はどこへやら、火花を散らして二人は睨み合う。先に折れたのはリウヒだった。腹が減ったのである。
「と、とりあえず、カスガ探してご飯にしよう」
「そして飯かよ。本当に色気のない女だな」
フンと鼻を鳴らしてリウヒが立ちあがり、服についていた草を払った。
***
「シギもリウヒもどうしたのさ。さっきからおかしいよ、君たち」
「別に」
「なんでもねえよ」
本殿跡地の芝生に、レジャーシートを広げて三人は弁当を食べていた。しかし、シギとリウヒはお互いそっぽを向いて、顔を合わせないように座っている。
カスガは怪訝そうにしていたものの、ティエンラン講釈を語りだし、リウヒが相手をしていた。
あれは何だったんだろう。シギは握り飯を口に運びながら、半ば呆然と考える。
先程リウヒを見た瞬間、懐かしいような、悲しいような、嬉しいような感情が広がった。並んで立った時、それをより強く感じた。
――ねえ、何か変な感じがしない?
ああ、おれもだ。
――わたしたち、ここで会ったことない?
ある。いつかは分からないくらい、遠い昔に。
そしてリウヒと見つめあっている内に、不思議な感情はどんどん膨れ上がってきた。
この娘と離れたくない。でもこいつはここから動けない。おれはここでは生きていけない。
自分の中で声がした。それは悲しく、痛いほどの葛藤を抱えていた。
なあ、おれと一緒に来てくれ。おれだけのものになってくれ。お前を愛しているんだ。
けれども、言えない。言えばお前は困るだろう。
体験したことのない愛おしさが溢れ出て、身を引き裂かれそうだった。
気が付けば、リウヒを抱きよせてキスをしていた。
あの時の自分と、リウヒはきっと普通の状態じゃなかった。まるで誰かが二人の体の中に入り込んで、感情を支配しているような感じだった。
思わず寒気がする。シギは腕をさすった。かすかに鳥肌が立っている。
二人の前世に関係あるのか。
それにしても、腹ただしいのはその後のリウヒの態度だ。まるでゴキブリに対するような態度で自分に怯え、しかもスケベ男と叫んだ。最終的には「ご飯にしよう」。
飯に負けたのかよ、おれは!
シギのプライドは痛く傷ついた。今まで声をかけてきた女は結構いたし、不自由はしなかった。そのおれがゴキブリ扱い。本当に可愛くない、色気のない女だ。
シギは腹立たしい気持ちのまま、握り飯をたいらげ、手についた米を舐めた。
***
「お握りも、唐揚げも、卵焼きも、お浸しも、お漬物も、全部おいしかった。ごちそうさま」
リウヒが手を合わせると、カスガも手を合わせた。
「はい、どーも」
「ごちそうさまでした」
シギが頭を下げる。
「これ、捨ててくるね」
リウヒがゴミを回収して、立ち上がる。
「ねえ、さっき、なにかあったの?」
遠ざかる後ろ姿を見て、カスガがシギを見た。
「なんで?」
「君もリウヒも様子がおかしかったから」
二人とも、心あらずという感じで、顔が赤くて、そのくせ険悪な雰囲気だった。
シギがためらいつつも、つっかえながら説明した。
「何か、自分が自分じゃない感じだった。誰かが入り込んだような、変な感じがした。多分、向こうもそうじゃないかな」
「不思議なこともあるもんだね。君たち、遠い昔は恋人同士だったんじゃないの」
「何かしらの理由があって、離れ離れになったとか。まあ、前世は前世で、おれはおれだけどな。だったら初めてリウヒを見たとき、どこかで会ったような気がしたのも納得できる……」
「え? なにそれ?」
なんでもねえよ、とシギが首を振った。
「どちらにしても、リウヒにとっては初キスだったんだよ」
「えええ!」
あの子は我儘で色気も可愛げもないが、夢見る乙女な部分も一応は持ち合わせていたらしく、その昔カスガに言ったことがある。
「初めてのキスは、夕日の見える公園で、大好きでたまらない人としたいな」
それが可哀そうに、こんな所で、こんな男と。
「あいつは天然記念物か」
「そんな人、いっぱいいるよ。むしろ君の女性関係を知りたいね」
「特定の女はいねえよ」
「不特定多数の女はいるわけだ」
あのね、シギ。
「君の女性関係に文句を言うつもりはさらさらないけど、リウヒには遊びで手を出さないでね。傷つけたら承知しないよ」
「頼まれなくても出さねえよ。あんなガリガリで、色気も可愛げもない女」
へっ、とシギが吐き捨てるように言った。
そうかな。結構気に入っているように見えるんだけどな。そう思ったが、口には出さずペットボトルのお茶を飲んだ。
蝉や小鳥の鳴き声がする。古代の宮廷でも、夏になると蝉は大声で鳴いていたのだろうか。
「カスガ、シギ」
リウヒが戻ってきた。
「あっちに下に降りる小道があったの。もしかしたら、駐車場にいく近道かもしれない」
「あの長い階段はおりたくねえなあ」
まだ足が痛い、とシギが長い足を上げる。
「じゃあ、時間はあるし、散策がてらその道を行ってみようか」
そして、三人は見事に道に迷ってしまった。