第十章 現代 1
黒が、自分の言をもう一度宰相に言い直している。
リウヒはため息をついて、額に手を当てた。
卓を囲む臣下たちは、不思議なものを見るような目で自分を見ている。
何で言葉が通じないのだろう、わたしは別にジン語を話している訳ではないのに。
いやいや、宰相もジン語ぐらい分かるだろう。ではなぜ通じないのか。
不思議だ。
「なりません!」
ようやっと理解してくれた、白髪の老人が声を強めた。
「大学は伝統ある学問の最高機関です。それをなくせとはどういうおつもりですか」
「そうは言っていないだろう。シラギ、どういう伝え方をしたのだ」
もう一度ため息が出る。
「学問にかかる金の見直しをしたらどうかといったのだ。民の中にも、優秀な人物は一杯いるはずだ、その者たちにも可能性を見出してやりたい」
「金がかかって当たり前のことなのです、勉学とは。それよりもですな、陛下。税を元に戻されたものの、未だに本殿の奥は工事が進められております。予算が……」
「足りないと?」
「左様でございます」
ならば、国王以下重鎮全員で、賃金稼ぎをしてはどうか。中々に楽しいぞ。
口元から出かかった言葉をリウヒは慌てて呑み込んだ。さすがに言える雰囲気ではなかったのである。
「目利きの女官を集めてくれ。別に男でもいい、飾り物や衣に詳しいものを」
「何をなさるおつもりで?」
「先王とショウギの衣と飾り物を売っ払ってしまおう。国宝級の物は手元に残す」
宰相は、ぱっかり口を開けた。シラギや臣下たちも、同じく口を開いた。
いっそすっきりして良いではないか。というリウヒの声は、静寂の中にぽつんと響いた。
それを打ち破ったのは、カグラの笑いだった。
「先王はともかく、ショウギのものは高値で売れるでしょう。衣も簪もふんだんにありますし、陛下のお好みには合わない」
ショウギの元愛人は、クツクツとまだ笑っている。
援軍を得て、リウヒは得意げに顎を上げた。
「それでよいな」
白髪の老人は、まだ呆けたまま頷いた。物を売るという発想がないらしい。
正午の鐘が鳴って、臣下たちは一斉に頭を垂れる。トモキに椅子を引かれて、リウヒは飛び降りた。
「本日の昼餉は本殿で召しあがってください。政務の前に、スザクの長との面会がございます」
飯ぐらいゆっくり食わせてくれ。
「分かった。トモキは食堂へゆくのだろう」
「はい。では御前失礼します」
丁寧に礼をすると、トモキは急ぎ足で北寮に向かった。リウヒは首をかしげる。
何故、あの兄は最近ちょくちょく北寮の食堂へいくのか。
「ひどい男ですね。主を置いて」
「トモキらしくないな。どうしたのだろう」
後ろからカグラとシラギの声がした。
「何かうまい定食でもあるのだろうか」
陛下はまだまだ、色気より食気のお年頃なのですね、とカグラが苦笑した。
一日の終わり、夕餉の前にリウヒは東宮の小庭園で城下を見下ろす癖がついた。
日没と共に空は様々に色を変えて、大地を彩る。
後ろにはトモキが控えている。
「なあ、トモキ。わたしは王というものは、何でも命令できると思っていたよ」
鶴の一声で、宮廷は動くものだと思っていた。ところがそんなに生易しいものではなかった。今までの慣習がある。長年積み重なった慣例もある。宮は宮なりの規則が存在し、全てはそれに則って動くようである。
流されて、巻かれてしまえば、その方が楽なような気がした。
「もしかしたら先王は国務に疲れ果てて、ショウギに逃げたのかもしれないな」
王なんて、ただ存在していればいい。国を動かすのは別に王でなくてもよいのだ。
逃げた方が楽じゃないか。遊び暮らしても、国は宮がある限り機能する。
それでも、わたしは民に誇られる王でありたいと思う。民が暮らしやすい国作りをするのが、わたしの義務であると思う。
「もし陛下が逃げたりしたら、必ずぼくが追いかけて捕まえますから。ぼくだけじゃない。シラギさまやカグラさま、マイムさん、キャラ、カガミさんも治してもらって一緒に」
あの愉快な仲間と一緒に。
リウヒは声を上げて笑った。
「ならば兄さまもいることだし、海を渡って逃げてやろう。みんなが追いかけてきてくれるなんて、楽しそうじゃないか」
「陛下」
「冗談だよ」
リウヒは振り返り、クスクス笑った。
「ここがわたしの居場所だ」
みんなのいるこの場所。
そしてトモキに近づき、その手を取って歩き始めた。トモキは素直に付いてくる。
「にいちゃん」
やっと言えた。ずっと言いたかった。
案の定、トモキは驚いた顔して固まっている。
その顔に、リウヒはしてやったり、とクスクス笑いを継続した。トモキもつられたように笑った。
「早く帰ろう。腹が減った」
「そうですね」
「今日の夕餉はなんだろう。菜飯じゃないといいけれど」
笑いあう二人は手を繋いで東宮へと向かう。
まるで仲のよい兄妹のように。
太陽はトモキとリウヒの影を濃く地に落として、西に沈みかけていた。
***
足が闇に沈みこむ。意識も引っ張られるように薄れてゆく。
ああ、そうか。
わたしたちはまた、現代に帰るんだ。
ぼんやりとした意識が戻り、リウヒは朦朧とした頭に手を当てた。
かすかな光が遠くに見えて呑気な鳥の鳴き声がうっすら聞こえる。
「動くなよ」
下からくぐもったシギの声が聞こえた。
「しばらくこのままでいい」
「馬鹿」
丁度胸のあたりにあった、オレンジ頭を抱え込む。
「帰って来たんだね……」
「うん」
「本当に帰って来ちゃったんだ……」
「どうでもいいからさ」
押し潰されたようなしかし苛立ったような声が、さらに下から聞こえた。
「頼むからさっさとどいてくれないかな…。君たちは殺人級のバカップルだよ」
古代で過ごしていた二年強と、現代も同じ時間の流れだった。
宮廷跡の森から抜け出した三人は、近くの交番に保護を求め、それからあれよあれよという間に警察に連れて行かされたり、病院に閉じ込められたり、泣き叫んでやってきた両親と再会したりした。
半乱狂で泣き縋る両親に、申し訳なさが募った。
「こめんね、お父さん、お母さん。心配かけて」
「一体、リウヒたちはどこへ行っていたの?」
「覚えていないんだ」
そう言う事にしておこうと、三人で話し合ったのだ。
「なんかすごくややこしくなりそうじゃねえか」
「もしかしたら、またタイムスリップする人が出るかもしれない」
「全て知らぬ存ぜぬで突っ切ろう」
しかし、身に付けていたのは、一千年前の古代の衣だ。それは取り上げられて、どこかの研究機関へと持っていかれたらしい。
ハヅキの簪だけは死守した。だって、おばあちゃんになっても持っていると約束したもの。
神隠しに会っていた大学生三人が、古代の衣装を着てひょっこり帰ってきたことを、メディアは大々的に取り上げた。
特にリウヒは、その名もあってか執拗に追いかけられた。外を出ることもままならない。ひっきりなしに訳の分からない電話はかかってくる。身を寄せている実家の周りには常に報道記者が待ち構えて、出勤する父や買い物に出る母に襲いかかった。
テレビをつければ、マイクを持ったレポーターがなぜか恐ろしげに実況しながら実家を映している。閉口してすぐに切った。
「みないほうがいいよ。すっごく面白いけどね」
電話の向こうでカスガが笑った。
「なんでか知らないけど、小学校の時の文集で書いた将来の夢とか暴露されていたよ。リウヒ、鳥になりたいって書いていたんだね」
「ぎゃー! 過去の汚点!」
「一回しか会ったことのない親戚のおじさんがさ、すごく偉そうにぼくのことを語っていたんだ。もう父さんと母さんと大爆笑でさあ」
「カスガ、すごいね。わたし、そんな笑い飛ばすなんてできない……」
リウヒの精神はすっかり参ってしまっている。
父と母に守られているものの、世間の関心が自分に集中している事が恐ろしくてならない。
「大丈夫だよ。じっとしていれば、その内過ぎ去っていくからさ」
「うん……ありがとう」
カスガの電話を切って、すぐにシギにかけた。シギも母親の元にいる。
声が聞きたくなる。声を聞くと会いたくなる。痛切に。
「おれもお前に会いたいよ」
受話器の向こうから、シギの痛々しい声がした。
「あのまま古代で暮らしていた方が良かったのかもな」
「でも、それだったら、わたしの両親に、シギを紹介できないじゃん」
わざと明るい声をだして、リウヒが笑った。
本当は泣きたかった。こんな大騒ぎ、もう嫌だ。シギに会いたい、カスガに会いたい。三人で呑気に笑いながら、旅をしたい。濃く青い空の下を。
カスガが聞いたら、またバカップルと連呼されそうな甘い会話をした後、パソコンを立ち上げた。
避けて通っていたハヅキのことを調べようと思ったのである。
シギもカスガも何か隠しているみたいだった。だけど、ハヅキが何をした人物であったのか知りたい。それがどんなことであろうとも。
その名前は簡単にヒットした。
パソコンの画面を追っていたリウヒの顔が、だんだんと驚愕に変わってゆく。涙がキーボードを濡らしていることすら気が付かなかった。
「嘘でしょう……?」
***
「嘘だろう?」
「嘘じゃねえよ」
「なんで?どうして?あんなにうっとおしいほど、ベタベタしていたバカップルだったのに……」
「リウヒがハヅキを知ったんだよ」
ケータイの向こうのうろたえた声は、ああ……と納得したように変化した。
シギは煙草に火を付けた。
古代であんなに軽く感じた体調は、ニコチンのせいで、また重くだるく沈んでゆく。
「ごめん、別れたい」
つっかえながら、嗚咽とともにかかってきた電話にシギは仰天した。
会って話したいと言うと、会いたくないと言う。
いても経ってもいられずに、玄関前で張っていたマスコミを蹴散らして、リウヒの実家に走ると、ここにも大量の報道陣が詰めかけていた。
「リウヒ!」
呼び鈴を押しても、玄関の戸を叩いても無駄だった。ただ、沈静化していたマスコミを、突いて騒ぎを大きくしただけだった。
メールをしても、電話をしても、うんともすんとも言わない。
理由を説明してくれとのメールに、
「わたしがハヅキに会わなければ、あの子はあんなんにならなかったよね」
とだけ返答が来た。
「それにしたって、一千年前のことじゃないか」
「おれもそう思うよ。だけどきっとリウヒにとっては二年前のことなんだ」
ぼくもちょっと電話をしてみる、と言ってカスガは電話を切った。
あんの馬鹿。本当に自分のことしか考えていない。
壁に凭れて、煙を吐く。
ハヅキは義理の妹と実の兄、なにより祖国を売った大悪人だった。
ジンに渡り、ヤン・チャオをそそのかして、ティエンランに攻めるように仕向けた。溺愛していた愛姫スズを殺されて、傷心のあまり冷血になってしまった新王は、ハヅキの言にのり大軍を率いて小国に攻め入ってくる。
そしてティエンランで最も有名な女王リウヒは、愛する夫シラギを失ったのだ。
ハヅキはその名前よりも、宰相トモキの弟として有名だった。だから、シギも分からなかった。酒場で愛おしそうにリウヒの髪を梳き、自分を燃えるような目で睨みつけてきたあの少年が、まさか第一の侵略の原因を作った男だとは。
きっと退学したハヅキは、惚れていたリウヒを探しにジンに行ったのだろう。そこで何があってヤン・チャオと縁を結んだのかは諸説あり、はっきりとは分からない。
だが、リウヒがハヅキに出会わなければ、ジンからの旅人とは言わなければ、もしかしたら侵略はなかったのかもしれない。
全ては一千年前に終わってしまった。
それをあんの馬鹿。
煙草を灰皿に押しつぶして、シギはため息をついた。
別れるつもりなんてサラサラない。
「好きにするがいいさ」
自分の声は、藍色のぼんやりした闇間にぽつりと漂った。
「どうせお前は、おれの元に帰ってくる」




