嵐の前 3
「お茶が飲みたくなったの。入れてくれないかしら。今日は、そうね、中つ国渡りのものがいいわ」
はイ、とにっこり返事をし、再び台所に引っ込んだ。
不思議な老女だ。名門出身ならではの品の良さと、このご時世でも贅沢ができる環境はさすがというべきか。そして、なぜかワカだけを手元に置き、他の仲間は一切寄せ付けなかった。報告と命令は、全て己を通してやっている。
まあ、人それぞれだから……。もっと変な雇い主もいたし。
茶器を盆にのせ、ジュズの前に置いてゆく。老女はおいしそうに一服した。
「あなたは本当にお茶を入れるのが上手ね」
「ありがとうございマス」
先程のアカンの報告を伝える。ジュズは聞きながら静かに茶を飲んでいた。
「明日、もしくは明後日に事態は動きマスネ」
「元気な王女のお陰で、ずいぶんとはやまってしまったのねえ」
でも
「そうなるとあなたともお別れね」
寂しそうに老女は笑った。
「ねえ、ワカ。どうしてわたくしがこんな事をしているのか分かる?」
歌うようなその声に、少女は首を振る。
「あなたと同じ、ただの仕事よ」
ジュズは優雅に首を巡らせ窓の外を見た。
「仕事のつもり、だったのよ。愛する人と娘を殺されるまでは」
皺に刻まれた細い指が、茶器をなぞる。
「組織って不思議ね。弱体化すればするほど、上部は犠牲を求めるのよ。だから、あの子には駒になってほしくなかったの。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の信念で行動する人間になってほしかった。これはタイキとカガミの願いでもあったのよ。そして、きっと、この国の」
楽しそうにクスクスと笑う。
「もしかして、わたくしはあの小さな王女に娘を見ていたのかもしれない。そして、同い年のあなたに王女を重ねていたのかもしれないわね」
愛おしそうにワカを見ながら、茶器を卓に戻す。にっこり笑ったワカがお代りを注いだ。
「王女が王になってからが、正念場でしょうね。でもあの子は何もかも飲みこめる強さを持っているから」
だけど、あのタヌキは……それだけでよしとしないでしょうね。息子でさえも駒に使う男は、貪欲だわ。その内、あの可愛い娘を傀儡の王にするかもしれない。
「だから、お先に西へいってもらうのよ。どうせすぐにわたくしも追いかけるもの。それまでタイキと仲良くお茶でも飲んでいるはずだわ」
「今後、ジュズサマはどうされるのでスカ?」
「そうね、体が動く内にまた旅でもしようかしら」
静かに笑うと、窓から注ぎこむ陽光に目を細めた。
***
窓の外には、夕闇が広がり始めている。寝台の上にはカガミが苦しそうに息をしており、マイムが医師から薬を受け取っていた。
「これを夕餉後に飲ませるように。無理をすると命に関わります。絶対安静になさってくださいね」
「分かったわ。ありがとう」
リウヒもぺこりと礼をする。白髪の背の高い医師は、いいえ、と白髭を震わせて言うと、助手の少年を引き連れて部屋を出た。宿を出た二人はすぐさま裏手に回り、衣を脱いだ。医師は鬘と髭をむしり黒装束になると同じく黒装束になった少年に僅かな声で言う。
「短時間でよくやってくれた、カナン」
「とんでもないです。イランさん」
そのまま壁を上って飛ぶように消えていった。リウヒは勿論知らない。
「なんか、こういうの嫌なのよ……。早く良くなっていつものタヌキに戻ってよ……」
「いいねえ。美人なお姉さんに看病してもらえるなんて、オヤジ冥利につきるよ」
カガミが、せわしない息をしながら笑う。
「余計な事を言う元気はあるのね。リウヒ、下でお水を貰ってきてちょうだい」
「分かった」
部屋を出ると、カグラにかちあった。
「どうしたのです、酷い顔をしていますよ」
「そうか?」
一向に良くならないカガミ、聞くのも苦しい民の声、これから歯向かう宮廷。この二日でそれらはどっしりとリウヒの肩にのしかかっている。
カグラはふと微笑むと、リウヒの頬に手をやった。
「では、わたくしが勇気づけのおまじないをしてあげましょう」
「おまじない?」
首を傾げるリウヒにカグラの顔が近づいてくる。驚きで動けないその唇に、男の唇が触れそうになった瞬間、部屋の扉が開いた。
「馬鹿! そして馬鹿! なに考えてんのよ、こんな所で! リウヒ! あんたはさっさと水を貰って来なさい!」
「殴る事はないでしょう、殴る事は。わたくしはただあの子を慰めようと……」
マイムとカグラの言い争いに、恐れをなしたリウヒは転がるように階下へと走った。
「またやってるんだ」
帰ってきたキャラが感心したように、上を見る。
「なんだか、ぼくの中のマイムさん像が崩れていく……」
その隣でトモキが悲しげにうなだれた。
深夜。リウヒは一人座り込んで、海を見ていた。時々小さなため息をつく。
宿の後ろにある黒い海は、昼間とは違いどこまでも闇と一体化していた。港の灯りが夜も遅いため落ちている。
先陣切って出るとは言ったけれど。後ろの壁に凭れた。
本当は怖くて仕方がない。でも、わたしから仕掛ける戦なのだ。なのに、みんなに守ってもらいながら戦うなんて、情けなすぎる。
「どうしたのです、こんな所で」
低い男の声に、びくりと体を震わせたリウヒは、その姿を確認して安堵の息をついた。
「なんだ、シラギか……。驚かせるな」
「それは失礼いたしました」
シラギはリウヒの横に同じく座り込むと、視線を海に向けた。
「お前には、申し訳ないと思っている」
しばらくの沈黙の後にリウヒはぽつりと言った。
「大切な部下たちと対峙しなくてはいけないし……。ほとんど、お前に頼る形になると思う」
「まあ、確かに……。宮廷に話し合いに行った折には、副将軍たちに泣いて縋られましたが」
僅かに苦笑した。
「タカトオとモクレンが?」
一度会ったことのある、シラギの両腕と呼ばれる老人と女だった。タカトオは元気なおじいさんで背筋がしっかり伸びており、リウヒを見て、「うちの孫をぜひ婿に」と笑った。
モクレンは、緋色の燃えるような髪と藤色の瞳の、美しい人だった。宮廷軍の唯一人の女性だ。二人とも、シラギを尊敬し本当に慕っているのだと感じた。
横のシラギも思い出しているのだろう。深いため息を漏らした。
わたしのせいで。
そうだ。とリウヒは心の中で手を打った。
「なあ、シラギ。勇気づけのおまじないを教えてもらったんだ」
「なんですか、それは」
「うん」
顔を上げたシラギの唇に、リウヒの唇が重なる。まるでぶつかったような、色気もへったくれもない口づけだった。
シラギはただ、目を見開いて硬直しているだけである。
ど……どうしよう……。自分から合わせたものの、どうしたらいいのか分からず、リウヒは困ってしまった。これでいいのだろうか。こんなので本当に、勇気なんて出てくるのだろうか。
息を止めてしばらく口をくっつけていたが、苦しくなって離した。
「き、効いたか?」
シラギは石の如く固まっている。
「あの、シラギ?」
不安を感じて顔を覗きこもうとすると、腕を引っ張られて抱え込まれた。
「ぐっふえ!」
思わず蛙を潰したような悲鳴が上がる。これもおまじないの一環なんだろうか?
「……とてつもない勇気をもらった」
呆けたようなシラギの声にリウヒは安心した。そうか、効いたか。良かった。
「リウヒ」
顔を上げようとしても、シラギの腕はびくともしない。
「わたしは宮ではなく、あなたの為だけにあります。だから、明日の事は心配しなくていい」
そのまま、力を込めて抱きしめられた。
「ところでこのまじないは誰に教えてもらったのだ」
「カグラ」
いきなり腕の中から引き剥がされた。キョトンとするリウヒに、シラギは真っ青になって声を強める。
「まさか、まさか、あの男に……!」
「してない。直前にマイムが乱入してきて、いつものごとくだ」
深い安堵の息を吐いたシラギは、再びリウヒを抱え込んだ。しばらくの間、二人はその状態で海を眺めていた。
宿の壁に張り付いて覗きこんでいる、痛々しい顔、感動している顔、髪を引っ張られて顰めている顔、銀髪を引っ張りながら微笑んでいる顔に気付く事もなく。
後日「勇気づけのおまじない」とやらは唯単にカグラのからかいで、実際は恋人同士がやる口づけだとリウヒは知った。恥ずかしさの余り、しばらくシラギの顔がみることができなかった。