6話 名を与えるということ
その日、リオルは呼ばれた。
朝の食事を終え、少しだけ休んでいたところだった。
胃の奥に、まだ温もりが残っている。
「伯爵がお呼びです」
そう告げたのは、執事長のリチャードだった。
低い声。
だが、そこに命令の色はない。
「……なにか……」
悪いことをしただろうか。
食べるのが遅かった。
話し方が、気に障ったかもしれない。
身体が、勝手に強張る。
「大丈夫だ」
隣にいたヴォルクルが、短く言った。
「俺も同行する」
その一言で、呼吸が整った。
*
応接室は、簡素だった。
豪奢な装飾はない。
だが、重みのある家具が、静かな威圧を放っている。
中央に座っていたのは――
ゼクロア・アルトレス。
年齢を感じさせる銀髪。
背筋は伸び、獣のような鋭さを宿した眼。
「来たか」
その声は、低く、落ち着いていた。
「座りなさい」
勧められ、リオルは椅子に腰掛ける。
ヴォルクルは一歩下がり、壁際に立った。
「体調はどうだ」
「……はい……その……」
言葉を探す。
「……食事を……いただきました……」
ゼクロアは、わずかに口角を上げた。
「それは良い」
短い沈黙。
そして、ゼクロアは本題に入った。
「リオル」
名を呼ばれ、心臓が跳ねる。
「私は、お前を“保護した”つもりはない」
その言葉に、リオルは息を呑んだ。
「拾ったのでも、慈善でもない」
淡々と、しかし明確に告げる。
「私は、お前を“選んだ”」
選んだ。
その言葉が理解できず、頭の中で転がる。
「……なぜ……」
か細い声が、零れた。
ゼクロアは視線を逸らさず、答える。
「帝国は、価値を数値で決める」
冷たい声音。
「魔力、血統、序列。
測れぬものは切り捨てる」
リオルの指先が、震えた。
「私は、それが嫌いだ」
はっきりとした拒絶。
「獣人を蔑ろにし、弱者を道具として扱う国に、未来はない」
アルトレス領が獣人の多い土地である理由。
反帝国派である理由。
すべてが、その言葉に集約されていた。
「お前は、帝国にとって“不要”だった」
ゼクロアは、そこで一度言葉を切る。
「だが、私にとっては違う」
静かな断言。
「私は、お前を――
アルトレス家の“家族”として迎えたい」
空気が、止まった。
家族。
その単語が、重すぎて、理解が追いつかない。
「……ぼくは……」
声が、震える。
「……なにも……できません……」
皇族だった。
だが、役に立たなかった。
掃除係にされ、売られた。
「今は、な」
ゼクロアは即答した。
「だが、それでいい」
椅子の肘掛けに手を置き、ゆっくりと続ける。
「アルトレス家は、“今できるか”で人を決めない」
「“生きる意志があるか”だけを見る」
リオルの喉が、詰まる。
生きる意志。
それを、昨日、初めて肯定したばかりだ。
「だから問う」
ゼクロアは、まっすぐに言った。
「ここで、生き直す覚悟はあるか」
逃げ道はない。
だが、追い詰める声でもない。
――選ばせている。
リオルは唇を噛みしめ、
小さく、頷いた。
「……あります……」
声は弱い。
だが、確かだった。
ゼクロアは、満足そうに息を吐く。
「ならば」
机の上に、一枚の書類を置いた。
「本日をもって、お前を――
リオル・アルトレスとする」
名を、与えられた。
血ではなく。
支配でもなく。
選択として。
「異論はないか」
リオルは、首を横に振る。
涙は出なかった。
だが、胸の奥が、熱い。
「……ありがとうございます……」
それが、精一杯だった。
ゼクロアは立ち上がり、最後に言う。
「ここでは、誰もお前を売らない」
「価値を、値段で測らせない」
その言葉を、
ヴォルクルは黙って聞いていた。
そして、心の中で誓う。
――この子は、俺が守る。
今度こそ。




