56話 夜の会話
夜の屋敷は、昼とはまるで別の顔を見せていた。
廊下に人影はなく、
壁に灯された魔力灯だけが、かすかに揺れている。
外から聞こえるのは、風にざわめく木々の音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけ。
医療棟の一室。
机の上には、書きかけの診療記録と、簡略化された魔術陣の図が並んでいた。
エド・イレイユスはペンを置き、ゆっくりと息を吐く。
そこへ、控えめなノック音。
「入るわよ」
扉が開き、ミリア・アルトレスが姿を見せた。
「……まだ起きていたのね」
「ええ」
エドは椅子から立ち上がらず、答える。
「今日の座学と訓練の記録をまとめていました」
ミリアは机の向かいに腰掛け、腕を組んだ。
「どうだった?」
「思っていたより、落ち着いています」
エドは率直に言った。
「聞く姿勢がある。
恐怖に飲み込まれてはいません」
「それは、良かった」
ミリアは小さく息を吐く。
「エリオラの訓練も、悪くなかったみたいね」
「ええ」
エドは頷いた。
「兆候は、あったそうですが」
その言葉に、ミリアの視線がわずかに鋭くなる。
「……やっぱり」
「呼吸を整えさせた瞬間、
体の内側が反応しかけたと」
エドは言葉を選びながら続ける。
「ですが――」
一拍。
「本人は、踏みとどまりました」
「制御できた?」
「はい。
無意識に魔力へ逃げる前に、
呼吸で留めたそうです」
ミリアは、静かに目を伏せた。
「現場で……耐えたのね」
「訓練の成果でもあります」
エドは記録に視線を落とす。
「同時に、
“力が目を覚まし始めている”証拠でもありますが」
部屋に、短い沈黙が落ちる。
「魔力量は?」
ミリアが問う。
「依然として、規格外です」
エドは即答した。
「循環は改善しています。
ですが……量の底が見えません」
「抜くことは?」
「理論上は可能です」
エドは首を横に振った。
「ですが、意味がありません。
抜いても、すぐに満ちる」
「それどころか、
外部から強く干渉すれば、
制御の糸を切りかねない」
ミリアは、静かに拳を握った。
「……暴走の可能性は?」
「ゼロではありません」
エドは、はっきりと言う。
「むしろ、“いつかは起きる”と考えるべきです」
「問題は、
いつ、どの規模で起きるか」
「帝国が知ったら?」
ミリアの声が、低く沈む。
「……消しに来るでしょう」
エドは迷いなく答えた。
「この力が公になれば、
帝国は全力で“排除”に動く」
「国の均衡を崩しかねない力ですから」
ミリアは深く息を吸い、吐いた。
「だから、守る」
「ええ」
エドは顔を上げる。
「守るために、育てる」
「抑え込むのではなく、
自分で扱えるようにする」
「それが、唯一の道です」
ミリアは、ゆっくりと頷いた。
「……重い役目ね」
「ですが」
エドは、ほんのわずかに表情を緩めた。
「希望はあります」
「リオルは、
自分の力を誇ろうとしない」
「恐れている。
分からないことを、怖がっている」
「それは――
暴走する者の資質ではありません」
ミリアは、静かに微笑んだ。
「そうね」
「だから、私たちが付いている」
立ち上がり、扉へ向かう。
「エド」
「はい」
「無理はさせない」
「でも――止めもしない」
「……承知しています」
扉が閉まり、
医療棟に再び静寂が戻る。
エドは、机の上の記録を見つめた。
そこには、まだ書かれていない未来がある。
不確定で、危うく、
だが――確かに、前へ進んでいる。
この静かな夜は、
きっと、長くは続かない。
それでも。
今はまだ、
守る準備をする時間が残されていた。




