48話 静かな朝
朝の空気は、昨日までと変わらないはずだった。
中庭に差し込む光も、
石畳のひんやりとした感触も、
すべて、いつも通りだ。
それなのに――
リオルは、胸の奥に残る重さを拭えずにいた。
誰かに見られていたわけではない。
問い詰められたわけでもない。
怒号も、剣戟も、魔力の揺らぎすらなかった。
ただ、
何も起きなかったはずの一日が、妙に静かすぎた。
「……?」
足が止まり、リオルは中庭を見渡す。
噴水は規則正しく水を湛え、
使用人たちは、いつもと変わらない動きで行き交っている。
壁も、床も、空も――
どこにも異変はない。
それでも、
胸の奥だけがざわつく。
理由の分からない、不安。
「考えすぎだ」
すぐ近くで、低い声がした。
振り向くと、ヴォルクルが立っている。
朝日に照らされた濃い青の髪と、わずかに動く獣の耳。
「顔に出てる」
「……そう?」
「そう」
短く言い切られて、
リオルは小さく苦笑した。
「……なんでもないよ」
ヴォルクルはしばらくリオルを見ていたが、
それ以上は追及しなかった。
代わりに、視線を中庭の端へ向ける。
「今日は警備が多いな」
その言葉で、リオルも気づいた。
普段より明らかに人の配置が厚い。
歩哨の数。
巡回の間隔。
どれも、ほんの少しずつ。
だが、確実に変わっている。
「……何かあったの?」
「さあな」
ヴォルクルは肩をすくめた。
「俺に説明は来てない。
ただ……用心してるだけだろ」
口調は、いつも通り。
だが、声の奥に、わずかな硬さがあった。
そこへ、軽い足音が近づく。
「おはようございます!」
明るい声とともに現れたのは、ミノンだった。
緑色の髪を揺らしながら、二人に小さく頭を下げる。
「今日もいい天気ですね」
「……そうだね」
リオルは頷く。
ミノンは周囲を見回し、少し首を傾げた。
「それにしても……今日は人が多いですね。
朝から警備の配置が変わっていて」
「気づいたか」
ヴォルクルが言う。
「ええ。
でも、理由は聞かされていません」
ミノンは、それ以上踏み込まなかった。
それが、この屋敷で生きる者の距離感だった。
「……ねえ」
リオルが、小さく口を開く。
「ぼく……何か、してしまったのかな」
二人の視線が、一斉にリオルへ向く。
「何もしてない」
ヴォルクルが、即座に言った。
「お前は、何も」
「……そう、だよね」
自分に言い聞かせるように、リオルは呟く。
胸の奥の重さは、まだ消えない。
だが、言葉にできない以上、掴みようもなかった。
遠く、回廊の向こうで足音が止まる。
一瞬だけ――
ゼクロア・アルトレス伯爵と、ミリアの姿が見えた。
二人は言葉を交わさない。
ただ、短く視線を合わせ、
それだけで何かを確認したように、別々の方向へ歩いていく。
リオルは、その背中を見つめていた。
(……何も、聞かされていない)
それが、
少しだけ――怖かった。
「行こう」
ヴォルクルが言う。
「朝食、冷める」
「……うん」
リオルは頷き、歩き出す。
いつも通りの廊下。
いつも通りの時間。
それなのに――
心の奥で、何かが静かに軋んでいた。
知らないままでいられる時間は、
そう長くない。
そんな予感がして、
リオルは無意識に、胸元を押さえていた。




