3話 鎖のない夜
部屋に通された瞬間、リオルは足を止めた。
広い。
それが、最初に浮かんだ感想だった。
天井は高く、白い壁には傷一つない。
床には柔らかな絨毯が敷かれ、足音が吸い込まれていく。
皇城の部屋よりは小さいはずなのに、
なぜか、こちらの方がずっと広く感じられた。
空間だけが、静かに広がっている。
窓に、鉄格子はない。
扉にも、内側から掛ける鍵が見当たらなかった。
――逃げられる。
その事実が、なぜか恐ろしくて、喉が詰まる。
「こちらが、お部屋になります」
声をかけたのは侍女だった。
獣の耳を持つ、若い獣人。
視線は自然と低く、動きは静かだ。
命令ではない。
怒鳴り声でもない。
それが、分からなかった。
リオルは無意識に一歩後ずさる。
殴られる距離を測る――身体に染みついた癖。
「あ……失礼しました」
侍女はすぐに気づき、距離を取った。
不快そうな顔もしない。
ただ、申し訳なさそうに頭を下げる。
「なにかありましたら、お呼びください」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
鍵の音はしない。
閉じ込められていない。
それだけで、胸が苦しくなった。
ベッドに目を向ける。
白いシーツ。
整えられた布団。
こんな場所に、横になっていい理由が分からない。
リオルは床に座り、背中を壁につけて膝を抱えた。
この姿勢だけが、落ち着いた。
しばらくして、食事が運ばれてきた。
湯気の立つスープ。
柔らかいパン。
温かい匂いが、胃を刺激する。
「……こんなに、いらない」
誰にともなく、呟いた。
スプーンを持つ手が震え、何度も止まる。
食べなければ殴られる。
だが、残しても殴られる。
どちらを選んでも、同じだった。
扉が、静かに開いた。
「無理をするな」
低い声。
振り向くと、ヴォルクルが立っていた。
燕尾服姿のまま、壁際に立ち、近づかない。
視線は真っ直ぐだが、威圧はない。
「残してもいい。ここでは、それで問題ない」
断言だった。
リオルは、恐る恐るスープを一口飲む。
温かい。
二口目で、視界が滲んだ。
半分ほどで、もう限界だった。
ヴォルクルは何も言わず、盆を下げる。
怒鳴り声は来ない。
拳も、蹴りもない。
夜になっても、灯りは消されなかった。
暗闇にすると、怯える者がいる。
それを考慮してのことだと、後で知る。
だがその夜、リオルは眠れなかった。
目を閉じると、地下房の臭いが蘇る。
乾いた血の匂い。
鉄と汗と、獣臭。
――役立たず。
――安物。
――生きてるだけ無駄だ。
奴隷商人の声が、耳元で響く。
息が浅くなり、身体が震える。
「……ここは、牢屋じゃない」
分かっている。
分かっているのに、信じられない。
物音がする。
誰かが来る。
殴られる。
捨てられる。
そう思った瞬間――
足音が止まった。
扉の前だ。
リオルは反射的に身を縮め、頭を抱えた。
「……ごめ……なさい……」
扉が、ゆっくりと開く。
入ってきたのは、ヴォルクルだった。
「起こしたか」
静かな声。
リオルは後ずさり、壁に背を打ちつける。
「ごめ……なさい……
……なにもしないから……」
目を閉じる。
だが――
頭に、温かい感触が落ちた。
大きな手が、そっと髪に置かれている。
押さえつけない。
撫で回さない。
ただ、そこにある。
「安心しろ」
低く、揺るぎない声。
「リオルのことは、俺が守る」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
――守る。
その言葉を、向けられた記憶がない。
「ここでは、誰もリオルを傷つけない。
……俺がいる限りは」
息が詰まり、喉が震える。
「……ほんと、に……?」
かすれた、幼い声。
ヴォルクルは答えなかった。
代わりに一歩近づき――
リオルを胸の中に引き寄せる。
強くない。
だが、逃げられない距離。
温かい。
次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
声にならない嗚咽。
喉が詰まり、息が乱れる。
「……こわ、かった……」
震える声で、ようやくそれだけ言えた。
殴られないように。
捨てられないように。
嫌われないように。
泣くことを、ずっと我慢してきた。
ヴォルクルは何も言わない。
ただ腕を回し、背を支える。
「……だいじょうぶだ」
耳元で、低く囁かれた。
「もう、独りじゃない」
それが、最後の引き金だった。
リオルはヴォルクルの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
子どもみたいに。
否、子どもとして。
嗚咽が止まらず、身体が小刻みに震える。
それでも、離されなかった。
泣いてもいい。
壊れてもいい。
そう許されたのは、生まれて初めてだった。
その夜、リオルは誰かの胸の中で、深く眠った。
鎖のない夜だった。




