41話 残ったもの
最初に戻ってきたのは、音だった。
遠くで誰かが歩く気配。
布が擦れる音。
低く抑えられた声。
それらが、ばらばらに耳へ届く。
次に感じたのは、
身体を包む、重たい感覚だった。
(……からだ……)
動かそうとして、
思うように力が入らない。
まぶたは重く、
開けるまでに、少し時間がかかった。
白い天井が、視界に入る。
柔らかな光。
鼻をくすぐる、薬草の匂い。
(……ここ……)
考えが、ゆっくりと形を取る。
――医療棟。
そこまで思い至った瞬間、
記憶が、一気に押し寄せた。
冷たい水。
焼けるような熱。
渦を巻く感覚。
叫び声。
倒れる侍女たち。
血を吐くミノン。
焼けただれた腕で、
それでも手を伸ばしてくれた――
「……っ……!」
息が詰まり、
胸の奥が、強く痛んだ。
身体を起こそうとして、
反射的に手に力を込める。
「――動かないでください」
静かな声が、すぐ近くから聞こえた。
視線を向けると、
エド・イレイユスが立っていた。
白衣姿。
いつもと変わらない、落ち着いた表情。
「……ここは……」
喉が渇き、
声はひどく掠れていた。
「医療棟です。
あなたは、丸一日眠っていました」
丸一日。
その言葉が、
胸の奥に、重く沈む。
「……みんな……」
リオルの視線が、自然と揺れた。
エドは、一拍置いた。
慰めるためでも、
不安を煽るためでもない。
事実を、整理するための間。
「侍女二人は重傷ですが、命に別状はありません。
現在は治癒魔術と医療で、状態は安定しています」
「……ミノン……」
「同様に重傷です。
魔力の逆流による内臓損傷がありましたが、
回復の見込みはあります」
胸の奥が、
わずかに、緩む。
だが――
まだ、終わらない。
「……ヴォルクル……」
その名を口にした瞬間、
指先が震えた。
エドは、視線を逸らさずに答える。
「生きています。
ただし、無事とは言えません」
それだけで、十分だった。
「……ぼく……」
声が、震える。
「……ぼくが……」
言葉が、途中で途切れる。
意図していなかった。
止めたかった。
そんな言い訳が、
頭をよぎる。
だが――
倒れた人たちの姿が、
鮮明に浮かぶ。
「……」
エドは、何も言わなかった。
否定もしない。
慰めもしない。
ただ、沈黙のまま、
事実を受け止めさせる。
それが、医師としての誠実さだった。
「……中庭は……」
「使用不能です。
石畳は砕け、植生も焼けました」
淡々とした報告。
だが、その一言一言が、
胸に突き刺さる。
「……外には……」
「情報は封じています。
ですが、完全ではありません」
リオルは、ゆっくりと目を閉じた。
(……やっぱり……)
あれほどの現象を、
屋敷の中だけで終わらせられるはずがない。
扉が、静かに開いた。
「……起きたか」
低い声。
ヴォルクルだった。
包帯に覆われた腕。
顔にも、いくつもの処置跡。
それでも、
立っている。
「……ヴォルクル……」
声を出した瞬間、
涙が滲んだ。
「……ごめ……」
最後まで、言えなかった。
ヴォルクルは、
何も言わずに近づく。
ベッドの脇に立ち、
そのまま、片膝をついた。
「……謝るな」
低く、短い声。
「……でも……」
「謝るな」
重ねる。
「お前は、逃げなかった」
リオルは、
小さく頷いた。
「……怖かった……だろ」
もう一度、頷く。
「……それでいい」
ヴォルクルは、
そっと、頭に手を置いた。
強くもなく、
弱くもない。
「……それでも、
ここにいる」
その手の温度に、
リオルは声を殺して泣いた。
誰かを傷つけたこと。
止められなかったこと。
自分が原因だと分かってしまったこと。
すべてが、
胸の奥に沈んでいく。
しばらくして、
エドが静かに口を開いた。
「……リオル」
リオルは、涙を拭い、
顔を上げる。
「あなたに、
伝えておかなければならないことがあります」
声は、変わらない。
だからこそ、
胸が、強く鳴った。
「……こわい……こと……?」
「事実です」
エドはそう言って、
小さな手鏡を差し出した。
「……一度、
ご自身で確認してください」
リオルは一瞬ためらい、
震える指で鏡を受け取る。
深呼吸を、一つ。
鏡の中に映ったのは――
自分の顔。
……だが、
知っているはずの自分ではなかった。
「……あ……」
瞳。
深く、沈むような青。
空の色ではない。
海の底を覗き込んだような、濃い青。
「……め……」
指が、無意識に目元に触れる。
そして、髪。
白銀だったはずの髪に、
確かに混じる――赤い光の筋。
「……なに……これ……」
掠れた声。
エドは、隠さず、淡々と告げる。
「暴走の影響です。
一時的なものではありません」
一拍置いて、続ける。
「痛みも、病気もありません。
ただ――残ったのです」
「……もどら……ない……?」
「戻りません」
はっきりと、断言する。
「あなたが変わったのではありません。
力に触れた痕跡が、
身体に刻まれただけです」
リオルは、
鏡から目を離せなかった。
「……へん……?」
「いいえ」
即答だった。
「異常ではありません。
ただし――
隠し続けるのは、難しくなるでしょう」
喉が、小さく鳴る。
「……それでも……
ぼく……ここに……」
言葉が、途切れる。
エドは、静かに言った。
「ここに居ていいかどうかを決めるのは、
私でも、帝国でもありません」
視線を、まっすぐ合わせる。
「あなた自身です」
リオルは、
鏡を胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。
逃げなかった。
目も逸らさなかった。
やがて――
小さく、だが確かに、頷く。
医療棟の外では、
夜の気配が、静かに満ちていく。
暴走は終わった。
だが、
何もなかったことには、もうできない。
それが、
この夜に残された、
動かしようのない現実だった。




