40話 引き金
中庭は、穏やかだった。
昼下がりの光が石畳を照らし、
木々の影が、ゆっくりと揺れている。
何も起きそうにない、
いつも通りの時間。
リオルは、一人で歩いていた。
理由はない。
ただ、屋内にいると胸の奥がざわつき、
外の空気を求めただけだった。
(……だいじょうぶ……)
そう思った瞬間――
足元を、冷たい感覚が撫でた。
「……っ……」
思わず、立ち止まる。
石畳は乾いている。
水たまりも、濡れた跡もない。
それなのに――
確かに、触れた。
(……また……)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
次の瞬間だった。
石畳の隙間から、
じわり、と水が滲み出した。
「……え……?」
一滴。
二滴。
落ちたわけではない。
湧いた、という表現が一番近い。
「……水? 噴水の配管……?」
近くで作業していた侍女、カナリアが首を傾げる。
「違う、ここ……」
リニカがそう言いかけた、その瞬間――
水が、跳ね上がった。
「きゃっ!」
足を取られ、リニカが倒れる。
カナリアが手を伸ばした、そのとき。
水が、渦を巻いた。
中心にいたのは――
リオル。
「……ちが……」
違う。
やっているつもりはない。
けれど――
考えるより先に、
体が理解してしまった。
(……ぼく……)
否定する暇もなかった。
理由を探す余裕もなかった。
ただ、
自分の内側から来ていると、分かってしまった。
「……やだ……」
胸の奥が、強く、強く脈打つ。
止め方が分からない。
どうすればいいかも分からない。
逃げたいのに、
自分の中から逃げられない。
「……やめ……て……!」
その叫びに呼応するように、
水の渦が一気に強まった。
量が増える。
勢いが変わる。
恐怖が、恐怖を呼ぶ。
――そして。
胸の奥の“熱”が、弾けた。
燃え上がる。
水を包み込むように、
炎が噴き上がった。
蒸気が爆発的に広がり、
中庭の空気が歪む。
「伏せろ!!」
叫びと同時に、影が飛び込んできた。
ヴォルクルだった。
考えるより先に、体が動いていた。
侍女たちの前に立ち、
そのまま水と炎の中へ踏み込む。
「リオル!!」
水圧が身体を叩きつける。
熱と冷気が同時に襲いかかり、
皮膚が焼け、筋肉が悲鳴を上げる。
それでも、止まらない。
「大丈夫だ!!
俺が……ここにいる!!」
嘘だ。
全然、大丈夫じゃない。
それでも――
その声だけは、はっきり届いた。
(……ヴォルクル……)
一瞬、恐怖が揺らぐ。
だが、次の瞬間。
感情が、完全に崩れた。
「……いやだ……いやだ……!」
発狂に近いパニックが、
魔力をさらに引きずり出す。
水と炎が、
絡み合いながら膨張していく。
その外側で、別の声が響いた。
「下がってください!」
ミノンだった。
状況を一瞬で把握し、
即座に詠唱へ入る。
「深淵の闇に抗いし者よ――」
光が弾け、
眩い防御結界が展開される。
ヴォルクルと、
倒れた侍女二人を包み込む。
だが――
完全ではない。
水と火の圧力が、
内側から結界を叩きつける。
「――っ……!」
ミノンの口から、血が零れた。
魔力の逆流。
内臓が、軋む。
それでも、術式は解かれない。
「……まだ……っ……!」
歯を食いしばりながら、
結界の構造を変える。
外へ弾くのではない。
中心を、隔離する。
光が形を変え、
リオルを包み込む檻となる。
守るための、封印。
その内側で、
ヴォルクルは最後の力を振り絞った。
焼けただれた腕で、
必死にリオルへ手を伸ばす。
「リオル……!!
離すな……!!」
水と炎の向こうで、
確かに、手が届いた。
「……ヴォル……クル……」
その声が、
一瞬だけ、恐怖を引き戻す。
だが――
もう、限界だった。
水と火が、さらに膨張する。
ミノンの結界が、
大きく軋む。
侍女二人が、
結界の内側で意識を失った。
ヴォルクルは、
最後の力でリオルを抱き寄せる。
次の瞬間――
視界が、白く弾けた。
衝撃。
轟音。
熱と冷気。
そして――
闇。
リオルの意識は、そこで途切れた。
中庭には、
砕けた石畳と、
立ち上る蒸気だけが残る。
誰も、死ななかった。
だが――
誰も、無傷ではなかった。
そして。
もう、後戻りはできない。




