2話 三日後、狼獣人は迎えに来た
意識は、何度も浮かんでは沈んだ。
暗闇の中で残るのは、音だけだった。
罵声。
蹴りの衝撃。
そして、あの金属音。
ちゃり。
頭の奥で、その音だけが何度も反響する。
――まだ、生きている。
そう気づくたびに、
なぜ生きているのかが分からなくなった。
死ねない理由も、
生かされている意味も、
もう考える気力すら残っていない。
三日間。
時間の感覚はとうに失われていた。
ただ殴られ、起こされ、立たされる。
「売れたのに、まだここかよ」
「引き取り遅ぇな」
殴りながら、奴隷商人は愚痴をこぼす。
その声も、言葉も、リオルの中には届かない。
水を与えられたのは、一度だけだった。
喉を潤すには足りない、
ただ「死なせないため」だけの量。
その三日目。
空気が、わずかに変わった。
扉の向こうで、足音が止まる。
複数ではない。
一人分の足音。
「……来たぞ」
誰かが、そう呟いた。
扉が開く。
外の光が差し込み、
眩しさに思わず目を閉じた。
その瞬間、
今までとは違う“気配”を感じた。
――静かだ。
殴る前の殺気でも、
値踏みする視線でもない。
足音が、近づいてくる。
「……細いな」
低い声。
誰に向けられた言葉なのか、
リオルには分からない。
次の瞬間、身体が浮いた。
乱暴ではない。
だが、慣れた動き。
抱え上げられ、肩に預けられる。
獣の体温。
人とは違う、確かな温もり。
「傷が多すぎるな」
淡々とした声。
「文句は伯爵に言え」
奴隷商人の返事は、投げやりだった。
外に出される。
風が頬を打つ。
久しぶりの外気に、肺が痛んだ。
馬車の音。
扉が開き、柔らかな座席に下ろされる。
その間、一度も殴られなかった。
それが、異常だった。
馬車が走り出す。
揺れの中で、
リオルの意識は再び遠のいていく。
――誰だろう。
――この人は。
その問いは、形になる前に消えた。
*
目を覚ました時、馬車は止まっていた。
扉の外から、落ち着いた声がする。
「着いたぞ」
外に出されると、
目の前に石造りの大きな門があった。
広い屋敷。
だが、威圧感よりも、
不思議な静けさが漂っている。
門の前に立っていたのは、一人の男。
三日前、
奴隷市場で金貨を置いた人物。
ゼクロア・アルトレス。
彼はリオルを見下ろし、静かに言った。
「おりなさい」
言われるまま地面に足をつける。
ふらつく身体を、背後から狼獣人が支えた。
「待っていたぞ」
責めるでもなく、
突き放すでもない声。
それは、
最初からここに来ることが決まっていたかのような声音だった。
「……名前は?」
問いかけられ、言葉に詰まる。
――名前を名乗っていいのか。
そう思ってしまった自分に、胸が痛んだ。
「……リオル」
かすれた声。
「リオル・ウィステリア、です」
ゼクロアは、一拍置いてから告げる。
「今日から、ここでは
リオル・アルトレスだ」
その言葉の意味を、
この時のリオルは、まだ理解していなかった。
ただ、
金貨の音とは違う“何か”が、
胸の奥で確かに鳴った気がした。
それが地獄の終わりなのか、
それとも――
別の始まりなのか。
まだ、分からなかった。




