36話 帰り道の静けさ
港町を離れる頃、
潮の匂いは、いつの間にか薄れていた。
賑わいは背中の向こうへ遠ざかり、
耳に残るのは、石畳を踏む三人分の足音だけ。
一定の間隔。
規則正しいリズム。
「……楽しかったですね」
ミノンが、満足そうに言った。
串焼きの余韻がまだ残っているのか、声は少し弾んでいる。
「食い過ぎだ」
ヴォルクルが、即座に返す。
「ええ? 市場に行って食べない方が失礼ですよ」
「誰にだ」
軽口。
ほんの少し前まで張りつめていた空気は、ここにはない。
リオルは、その会話を聞きながら歩いていた。
胸の奥は、
港にいる間よりも、ずっと静かだった。
(……だいじょうぶ……)
そう思った――
その、次の瞬間。
ひやり、と。
冷たい感覚が、靴底を撫でた。
「……?」
立ち止まるほどではない。
だが、確かに感じた。
冷たい水に、
ほんの一瞬だけ触れたような感覚。
リオルは、思わず足元を見る。
石畳は乾いている。
水たまりも、濡れた跡もない。
(……気のせい……?)
一歩、踏み出す。
何も起きない。
「リオル?」
ヴォルクルの声が、すぐ近くで響いた。
「……どうした」
「……なんでも……ない……」
嘘ではなかった。
ただ、言葉にできないだけだ。
ミノンも足を止め、周囲を見回す。
「……今、空気……冷たくなりませんでした?」
ヴォルクルは、首を振った。
「変わってねえ」
風も、温度も、同じだ。
ミノンはわずかに眉を寄せ、
リオルへ視線を移す。
「……リオル様、足元……」
「……だいじょうぶ……」
そう言って、微笑もうとする。
だが――
ヴォルクルは、見逃さなかった。
指先が、ほんのわずかに強張っている。
(……さっきまで、平気だった)
ヴォルクルは、無言のまま半歩近づいた。
触れない。
だが、外側に立つ。
守る位置。
すると――
胸の奥に溜まっていたものが、
すっと引いていく感覚があった。
それを、一番驚いたのはリオル自身だった。
(……いま……なに……?)
熱ではない。
さっきまでの内側の温かさとも違う。
冷たさ。
中庭で水が現れた、
あの瞬間の感覚に、よく似ていた。
「……帰ろう」
ヴォルクルが言う。
命令ではない。
静かな提案だった。
「……うん……」
ミノンも、小さく頷く。
「今日は、十分気晴らしできましたし」
三人は、再び歩き出す。
石畳に、異変はない。
空気も、いつも通りだ。
だが――
リオルの中には、確かに残っていた。
水に触れたような、冷たい感覚。
それが何なのか、
まだ、分からない。
ただ一つ言えるのは――
港で感じていた“静けさ”とは、質が違うということ。
アルトレス家の屋敷が、視界に入る。
その頃には、
冷たさは、すっかり消えていた。
(……さっきの……なんだったんだろう……)
問いは、
胸の奥へ沈んだまま。
答えは、まだ浮かばない。
だが、
確実に――
何かが、形を変え始めていた。




