35話 港町の匂い
港町は、昼前から賑わっていた。
潮の匂い。
焼き魚の香ばしい煙。
行き交う人々の呼び声と、笑い声。
アルトレス領の港は、
帝都とは違う、生きた音に満ちている。
「……ひと、いっぱい……」
リオルは、少し目を見開きながら呟いた。
人混みは、得意ではない。
けれど――
左右に、ヴォルクルとミノンがいる。
それだけで、足は自然と前に出ていた。
「無理なら、すぐ戻るぞ」
ヴォルクルが、低く言う。
「……ううん……だいじょうぶ……」
そう答えた直後だった。
「――あっ!!」
ミノンが、急に声を上げた。
振り向くと、
目を輝かせて屋台を指さしている。
「魚! 串焼き!」
「見てください、あれ!」
言い終わる前に、
もう屋台の前だった。
「おい、待て」
ヴォルクルが呆れた声を出すが、
ミノンは聞いていない。
「これください! あと、これも!」
受け取った串を、
その場で――
「うまっ……!」
一口。
次の瞬間には、
一本が消えていた。
「……即かよ」
ヴォルクルが、ため息をつく。
「市場ですよ?」
「今食べないで、いつ食べるんですか」
口元を油で光らせながら、
ミノンは満面の笑みだった。
リオルは、その様子を少し離れたところで見ていた。
(……たのしそう……)
焼ける音。
立ちのぼる匂い。
――ぐぅ。
小さく、だがはっきりとした音。
ヴォルクルの腹だった。
「……」
ミノンが、ゆっくり振り返る。
「……今の、聞こえましたよね」
「……なんでもねぇ」
即答。
だが――
――ぐぅ。
追い打ち。
「……」
ミノンが、吹き出した。
「素直じゃないですね」
「うるさい」
ヴォルクルは顔を背ける。
その様子を見て、
リオルは一瞬きょとんとし――
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……あの……」
二人が、こちらを見る。
リオルは、屋台の串焼きを指さす。
「……ぼくと……」
「……はんぶんこ……する……?」
少し照れた声。
ヴォルクルは、固まった。
「……な、何言って……」
「いい。別に腹は――」
――ぐぅ。
沈黙。
「……」
観念したように、
ヴォルクルは屋台に向かった。
「……串、一本」
「はいよ! 串一本、銀貨一枚だ!」
銀貨を渡し、
受け取った串を――
少し乱暴に、差し出す。
「……半分な」
「……うん……」
二人で、同時にかじる。
外は香ばしく、
中はふっくらしている。
「……おいしい……」
リオルが、ぽつりと呟く。
「……だな」
ヴォルクルも、ぼそっと答えた。
ミノンは、すでに三本目だった。
「港の魚は新鮮ですねぇ……」
平和な光景。
誰も、
魔力のことも、
帝国のことも、
考えていない。
ほんの、ひととき。
リオルは、串を持ったまま、
港を行き交う人々を見つめた。
(……こんな日……)
胸の奥が、
少しだけ、静かだった。
ヴォルクルは、その変化を見逃さない。
だから、何も言わず、
一歩だけ、近くに立った。
守るように。
日常は、確かにここにあった。
だが――
それが、いつまで続くのかは、
まだ、誰にも分からない。




