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30話 平穏



アルトレス家の朝は、静かに始まった。


窓から差し込む光はやわらかく、

白いカーテンを透かして室内に落ちる。

遠くで鳥の声が重なり、屋敷は穏やかな気配に包まれていた。


「……」


リオルは、ゆっくりと目を覚ました。


眠れていないわけではない。

悪夢を見た記憶も、ない。


それでも――

胸の奥に、薄く残る熱があった。


(……また……)


痛みではない。

息苦しさでもない。


ただ、体の内側が、微かに落ち着かない。


布団の上で身を起こすと、

指先が、わずかに震えた。


深く息を吸い、吐く。

呼吸はすぐに整う。


だが、違和感だけが、残った。



「リオル、起きてるか」


扉の外から、低く落ち着いた声がした。


「……うん……入って……」


ヴォルクルが、静かに入ってくる。


燕尾服に身を包んだ狼獣人。

いつもと変わらない立ち姿。

だが、その視線は真っ先にリオルの顔色を捉えていた。


「顔、白いな」


「……そう……?」


自分では、よく分からない。


ベッドから立ち上がろうとして、

一瞬、足元が揺れた。


「おい」


ヴォルクルの手が伸び、

自然な動きで腕を支える。


「無理すんな。今日はゆっくりでいい」


触れられた瞬間、

胸の奥のざわつきが、すっと引いた。


(……落ち着く……)


理由は分からない。

ただ、ヴォルクルがそばにいると、

体が言うことを聞く。


「……ありがとう……」


「当たり前だ」


短く、即答だった。



朝食は、静かな食堂で取った。


消化の良い料理。

温かいスープ。

栄養を考え抜かれた献立。


――ミリアの指示によるものだ。


リオルは、ゆっくりと口に運ぶ。


味は分かる。

飲み込みも、問題ない。


けれど――


「……ちょっと、暑い……」


ぽつりと零す。


周囲の誰も、暑そうにはしていない。


ヴォルクルが無言で立ち上がり、

窓を少しだけ開けた。


外の空気が、流れ込む。


その瞬間、

胸の奥の熱が、和らいだ。


(……外……?)


理由は分からない。

考えようとしても、言葉にならなかった。


「……ごちそうさま……」



食後、リオルは回廊を歩いていた。


足取りはゆっくりだが、

朝よりは安定している。


自然と、視線が中庭へ向いた。


手入れの行き届いた石畳。

整えられた草木。

噴水の水音が、静かに響いている。


リオルは、足を止めた。


(……ここ……)


胸の奥の熱が、

この場所に来ると、さらに静かになる。


「中庭、好きなのか」


隣で、ヴォルクルが言う。


「……うん……落ち着く……」


それ以上は、言えなかった。


風が吹き、草木が揺れる。


リオルの白銀の髪が、ふわりと揺れ、

その奥に――

本人もまだ気づいていない赤い光が、かすかに混じる。


ヴォルクルは、それを見ていない。

ただ、無意識に一歩、距離を詰めた。


守るように。


中庭は、今日も穏やかだった。


何も起きない。

何も壊れない。


――それが、

いちばん危うい「平穏」だと、

まだ誰も知らなかった。


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