1話 金貨の音
殴られる理由は、いつも後付けだった。
「遅い」
その声が聞こえた瞬間、腹に衝撃が走る。
息が肺から押し出され、音にならない声が喉に引っかかった。
「……っ」
床に膝をついた、その瞬間に理由が更新される。
「目障りだ」
蹴りは、ためらいなく入った。
骨ではなく、内側を狙う蹴り方。
内臓が揺れ、視界が歪む。
倒れそうになったところで、髪を掴まれた。
頭皮が引き攣れ、首が無理やり上を向かされる。
「倒れるな」
命令だった。
倒れることは許されない。
だが、立ち続けることも許されていない。
床は冷たい。
埃と血と、古い汗の匂いが混ざっている。
そこに顔を近づけるたび、胃が痙攣した。
水は、ない。
喉が焼けるように痛い。
唾液すら出ず、舌が口の中に張り付く。
「……は、ぁ……」
息を整えようとしただけで、殴られた。
「声出すな」
拳が頬を掠め、頭が横に振られる。
歯が鳴り、耳鳴りが始まる。
「親王殿下が惨めなもんだなー」
笑い声が重なった。
複数の声。
人の声のはずなのに、どれも感情が薄い。
獣が、餌を囲んで鳴いているように聞こえた。
十五親王殿下
その言葉は、もう現実と結びつかない。
――違う。
――それは、昔の話だ。
そう思おうとしても、思考が続かない。
考えると、何かが壊れそうだった。
だから、数を数えた。
殴られた回数。
蹴られた回数。
それだけが、
自分がまだ生きている証だった。
その時。
扉が、軋む音を立てて開いた。
「……客だ」
短い一言。
それだけで、殴打は止んだ。
あまりにも急に、暴力が消える。
静まり返った空間が、逆に耳を壊す。
心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
引きずられるようにして、前へ出される。
足が震える。
感覚が、ない。
そこに立っていたのは、年老いた男だった。
背は高く、姿勢は崩れていない。
服装は質素で、装飾も少ない。
だが、その場にいる誰よりも――
静かで、重い。
視線が、リオルを捉える。
値踏みではなかった。
哀れみでも、好奇でもない。
――観察。
「……これか」
低い声。
怒りも、興味も、含まれていない。
「病弱でして」
「使えません」
「売れ残りです」
「最安値で――」
言葉が重ねられる。
必死さが、逆に滑稽だった。
男は、手を上げた。
「いい」
それだけ。
次の瞬間。
ちゃり。
金属が、硬い机に触れる音。
静かな部屋に、その音だけが落ちた。
一枚。
二枚。
三枚。
金貨が置かれるたび、
殴られた時よりも、はっきりと耳に残る。
それは、
値段が付いた音だった。
「……確かに」
奴隷商人の声が、弾む。
だが男は、それ以上何も言わない。
リオルを見ることも、触れることもない。
ただ、背を向けた。
「三日後に迎えを寄越す」
淡々とした言葉。
三日後。
その意味を考える前に、力が抜けた。
膝が崩れ、視界が暗くなる。
「倒れるな!」
怒鳴り声と、蹴り。
だが、もう身体は言うことを聞かなかった。
最後に聞こえたのは、
金貨が袋に収められる、鈍い音。
ちゃり、と。
それが、
リオルが“売れた”証だった。
暗闇が、ゆっくりと落ちてくる。
殴られた痛みよりも、
その音だけが、
いつまでも、頭に残っていた。




