24話 みどり色の執事
朝のアルトレス邸は、忙しい。
廊下を行き交う使用人たちの足音。
食堂から漂ってくる、焼きたてのパンの匂い。
どれも、いつもと変わらない。
――はずだった。
「……ねえ、見た?」
「ええ……昨日から、ついてるわよね」
角を曲がった先で、ひそやかな声が交わされる。
視線の先には、三人の姿。
先頭を歩くのは、狼獣人の執事。
無駄のない歩幅と、周囲を警戒する鋭い気配。
その少し後ろを、少年が歩いている。
まだ背は低く、足取りは慎重だ。
そして、そのさらに後ろ。
緑色の髪の青年が、静かに続いていた。
「……あの人、誰?」
「新しい執事でしょう」
「ほら……緑の……」
「……ああ、みどり色の執事」
誰かが、そう呼んだ。
侮蔑でも、親しみでもない。
ただ、正体の分からない存在につけられた仮の名。
当の本人――ミノンは、
そう呼ばれていることなど、知らない。
*
中庭。
朝の空気は澄み、風も穏やかだった。
リオルは石畳の端に立ち、
庭の中央をぼんやりと眺めている。
胸の奥は、静かだ。
完全に何もないわけではない。
だが、昨日のような近さは感じない。
「……リオル様」
背後から、穏やかな声。
振り返ると、ミノンが一歩距離を保って立っていた。
「……お身体の具合はいかがですか?」
問いは丁寧で、慎重だった。
「……だいじょうぶ……です……」
少し考えてから、リオルは答える。
「……なにも……でて……ません……」
ミノンは目を伏せ、静かに頷いた。
「……はい。
今のところ、安定しています」
“良かった”とは言わない。
“安心しました”とも言わない。
事実だけを、共有する。
少し離れた場所で、ヴォルクルがその様子を見ている。
視線は、リオルから外れない。
ミノンはそれに気づいているが、何も言わない。
役割が違うことを、互いに理解していた。
「……歩きますか」
ヴォルクルの短い言葉。
「……はい……」
頷くと、三人は自然に動き出す。
前にヴォルクル。
中央にリオル。
後ろにミノン。
昨日と同じ配置。
誰も指示していない。
それでも、崩れない。
*
庭の端で、使用人たちがその様子を見ていた。
「……囲まれてる、って感じじゃないわね」
「ええ……」
「守られてる、っていうより……」
「……整ってる、かしら」
誰かが、そう言った。
みどり色の執事は、一歩も前に出ない。
だが、そこに“いない”わけでもない。
空気を測り、変化を待ち、
何も起きていない今でさえ、立ち続けている。
「……不思議な人ね」
「ええ……でも……」
言葉を選んで、誰かが続ける。
「……あの方が後ろにいると、
少し……静かになるわ」
安心とは違う。
何かが起きても、ここで止まる――
そんな予感を含んだ静けさ。
*
回廊に戻る途中、
リオルの足が、わずかに止まる。
胸の奥が、かすかに揺れた。
昨日より、ずっと小さい。
だが、確かに、ある。
ヴォルクルが即座に前に出る。
「……どうした」
「……ちょっと……」
言葉にならないまま、
リオルは胸に手を当てる。
ミノンは一歩下がり、背後を取った。
声は低く、落ち着いている。
「……外には、出ていません」
「……今は、内側だけです」
断定ではない。
確認の共有。
リオルは、その言葉で呼吸を整える。
「……ごめんなさい……」
反射的に出た謝罪。
ミノンは、すぐに首を振った。
「……謝る必要はありません、リオル様」
やわらかく、しかしはっきりと。
「感じたことを、教えてくださっているだけです」
リオルは、目を見開いた。
そんなふうに言われたことは、やはりない。
ヴォルクルが、低く言う。
「……今のでいい」
それだけ。
否定も、責めもない。
リオルは、ゆっくりと頷いた。
「……はい……」
胸の奥の揺れは、
いつの間にか、収まっていた。
*
夕方。
書庫の前を通りかかった使用人が、足を止める。
扉の隙間から見えたのは、
机に向かうリオルと、少し離れて立つ二人の執事。
狼獣人は動かない。
みどり色の執事は、静かに立っている。
どちらも、過剰に近づかない。
それでも――
「……あの子、
ちゃんと守られてるのね」
その言葉は、噂にも、報告にもならなかった。
ただ、
屋敷の空気に、静かに混ざっていく。
*
夜。
リオルはベッドに横になり、天井を見つめていた。
今日は、水は出ていない。
熱も、ない。
それでも。
(……だいじょうぶ……だった……)
理由は、はっきりしない。
けれど、
一人ではなかった。
前に。
後ろに。
違う形で立つ人がいる。
扉の外に、二つの気配。
それだけで、今は十分だった。
目を閉じる。
みどり色の執事は、
まだ名を知られていない。
だが、その存在は、確かにここにある。
そしてそれは――
これから起きる“本当の力”に備えるための、
静かな準備でもあった。




