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19話 保てないもの



朝、屋敷の中はいつもより早く動き出していた。


特別な予定があるわけではない。

誰かが命じたわけでもない。


ただ――

落ち着かなかった。


回廊を歩く足音が揃わない。

扉の開閉が、わずかに多い。

窓を開けては閉める者が、やけに目につく。


空気は澄んでいる。

匂いも、温度も、いつも通りだ。


それなのに、

胸の奥に残るざわめきだけが、消えない。



厨房では、マリが鍋の前に立っていた。


火加減は完璧だ。

香りも、色も、問題ない。


それでも。


「……今日は……」


言葉にしかけて、飲み込む。


火のそばに立っていると、

胸の内側が、静かに落ち着かなくなる。


怖いわけではない。

熱いわけでもない。


ただ、

長く向き合っていられない。


「……少し、下がりますね」


誰に言うでもなくそう呟き、

マリは一歩、距離を取った。


火は、何も変わらない。

それでも、

自分のほうが先に耐えられなくなっている。



医療棟。


エド・イレイユスは、薬棚の前に立っていた。


瓶を一つ、手に取る。

戻す。


それだけの動作なのに、

指先に、微細な違和感が走る。


棚は安定している。

瓶も揺れていない。


それでも――

合っていない。


「……誤差、ではないな」


独り言のように呟き、

窓の外へ視線を移す。


中庭を歩くリオルの姿が見えた。


穏やかな足取り。

変わらない表情。


異変は、どこにもない。


それでも。


「……保っている、のではない」


静かに、そう言う。


「……保たされている」


何が、とは言わない。

言う必要がなかった。


この状態が、

いつまで続くか分からないことだけは、

はっきりしていた。



回廊で、リオルは本を抱えたまま立ち止まっていた。


読むつもりで持ってきた。

けれど、文字は視界を流れるだけで、

意味として残らない。


胸の奥が、温かい。


昨日より、

少しだけ近い。


触れられない。

だが、確かにそこにある。


(……へん……)


そう思いながらも、

不安はない。


苦しくも、怖くもない。


ただ、

内側と外側が、わずかに噛み合っていない。


「……リオル様」


声をかけられ、顔を上げる。


リチャードだった。


「お顔色が……」


「……だいじょうぶ、です……」


答えると、

リチャードは一瞬、言葉を探すように視線を伏せた。


「……承知いたしました」


深く一礼し、

それ以上踏み込まない。


離れもしない。

近づきもしない。


留まる。


それが最も自然だと、

無意識に判断している動きだった。



中庭。


ヴォルクルは、

リオルの少し斜め後ろを歩いていた。


だが今日は、

その位置を保つこと自体が、

わずかに難しい。


近づけば、

周囲の空気がざわつく。


離れれば、

重さが増す。


ヴォルクルは、呼吸を整える。


乱れてはいない。

問題もない。


それでも、

本能だけが告げていた。


――このままでは、足りない。


守る、ではない。

制御する、でもない。


ただ、

一人にしてはいけない。


その確信だけが、

はっきりと胸に残っていた。



夕方。


屋敷の一角で、

小さな異変が起きた。


魔術灯が、

一瞬だけ明滅した。


すぐに戻る。

故障でもない。


「……今の、見た?」


「気のせいだろ」


誰も問題にはしない。


だが、

同じ灯りの前に、

長く留まる者はいなかった。


理由は、誰にも分からない。


ただ、

そこに居続けることができなかった。



夜。


リオルは、ベッドに腰掛けていた。


眠れないわけではない。

だが、横になる気にもなれない。


胸の奥が、

静かに、しかし確実に存在感を主張している。


熱ではない。

痛みでもない。


「……なに……?」


小さく零しても、

答えは返らない。


扉の外で、足音が止まる。


ノックはない。

ただ、そこにいる。


ヴォルクルだと、分かった。


それだけで、

胸の内のざわめきが、

わずかに落ち着く。


リオルは、何も言わなかった。

言葉にするには、

まだ早いと感じていた。


この夜は、

何事もなく終わる。


けれど。


屋敷の中で、

人も、物も、空間も、

ぎりぎりのところで均衡を保っている。


それを崩す引き金が、

まだ、形を持っていないだけで。


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