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17話 寄り添うもの



朝から、空気が妙に静かだった。


アルトレス邸の中庭は、いつもと変わらないはずなのに、

耳に届くはずの音が、どこか遠い。


風は吹いている。

木々も揺れている。

それなのに、葉擦れの音が、薄い。


「……静かですね」


ぽつりと零したリオルの声は、

思った以上にはっきりと響いた。


隣を歩くヴォルクルは、すぐには答えなかった。

一拍置いてから、短く言う。


「……そうか?」


問い返す形だったが、

否定でも、肯定でもない。


リオルは首を傾げる。


「……なんて言えばいいのか……」

「……音が……一枚、布を挟んだみたいで……」


自分でも、何を言っているのか分からなかった。

ただ、そう感じた。


ヴォルクルは、それ以上聞かない。

代わりに、歩く速度を、ほんのわずかに落とした。


二人の距離は変わらない。

だが、空気の密度だけが、わずかに変わる。


中庭の花壇では、

侍女のカナリアとリニカが、並んで作業をしていた。


花に水をやり、

枯れた葉を摘み取る。


いつも通りの光景。


――ただ、一瞬だけ。


ジョウロから落ちた水が、

地面に触れる前で、ほんのわずかに形を保った。


滴が、落ちるのをためらうように。


「……今の……」


カナリアが、小さく声を漏らす。


「ん?」


リニカが首を傾げた、その瞬間、

水は何事もなかったように、地面へ染みていった。


「……気のせいか」


「最近、ちょっと疲れてるんじゃない?」


軽い笑い声。

二人は、そのまま作業を続ける。


誰も、深く考えない。

考える理由が、ない。


けれど。


リオルは、その場から目を離せずにいた。


(……いまの……)


胸の奥が、微かに熱を持つ。


昨日感じたものと、同じ。

だが、今日は少しだけ輪郭がある。


はっきりとは分からない。

ただ、「無関係ではない」という感覚だけが残る。


「……戻るか」


ヴォルクルの声で、我に返る。


「……はい……」


歩き出すと、

中庭の空気が、わずかに動いた。


重かったものが、

ほんの一瞬だけ、緩む。


その変化に気づいたのは、

ヴォルクルだけだった。


彼は、理由もなく、

リオルとの距離を、半歩だけ詰める。


守る、というほどの動きではない。

だが、離す理由もなかった。



医療棟の一室。


エド・イレイユスは、机に広げた書類から視線を上げ、

窓の外を見ていた。


中庭。

ちょうど、リオルが回廊へ入るところだ。


数値は取っていない。

測定もしていない。


それでも、

分かってしまう段階に来ている。


エドは、静かに息を吐いた。


「……暴れてはいない」


独り言のように呟く。


魔力の乱れも、逸脱もない。

循環は、保たれている。


だが――


「……沈め続けていたものが、

 完全には静止していない」


ペンを指先で転がす。


異常と呼ぶには、まだ早い。

正常と呼ぶには、もう無理がある。


「……時間の問題、か」


その言葉に、焦りはなかった。


あるのは、

準備が必要だという認識だけ。



回廊の別の窓辺で、

ミリアは立ち止まっていた。


カーテンが、

風もないのに、ゆっくりと揺れている。


視線の先には、

本を抱えて歩くリオルの姿。


彼の周囲だけ、

光の反射が、わずかに異なる。


強いわけでも、歪んでいるわけでもない。

ただ、馴染んでいない。


「……もう、始まってるのね」


声は低い。


それは確認ではなく、

受け入れに近かった。


「まだ……誰も、気づいていない」


それだけが、

今のところの救い。


ミリアは、静かに窓から離れた。



夕刻。


部屋で本を読んでいたリオルは、

ページをめくりながら、ふと手を止めた。


文字が、頭に入ってこない。


胸の奥が、温かい。


朝よりも、

ほんの少しだけ、はっきりしている。


(……へん……)


不安はない。

怖くもない。


ただ、

何かを抱えている感覚だけが、

確かにそこにある。


扉の外で、足音が止まる。


「……リオル様」


リチャードの声。


「夕食の準備が整いました」


「……はい……」


立ち上がった瞬間、

床が、一瞬だけ遠く感じた。


倒れるほどではない。

立っていられないわけでもない。


ただ、

身体が世界と噛み合うまでに、

一拍の間がある。


その間、

胸の奥の温かさが、

わずかに強まった。


――それだけだ。


何も起きない。

何も壊れない。


けれど。


この感覚が、

いつか形を持つものだと、

世界のほうが先に察している。


リオルだけが、

まだ、その意味を知らなかった。


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