12話 約束を守れなかった十年、守ると決めた今
ミリア・アルトレスは、書斎の窓辺に立っていた。
午後の光が、床に淡く落ちている。
庭を渡る風が木々を揺らし、その音だけが静かに耳へ届く。
この静けさを、
「次の命令の前触れ」だと思わなくなったのは、いつからだっただろう。
帝国にいた頃、
静けさは常に、誰かを切り捨てる合図だった。
「……リオル……」
無意識に、名がこぼれる。
今日、ようやく会えた子。
小さな体で、それでも目を伏せずに立とうとする子。
十年。
たった十年で、
あの子は“守られるはずの時間”を、すべて奪われてきた。
*
十年前。
リオルの母が亡くなった日のことを、
ミリアは今も、はっきりと覚えている。
戦場ではなかった。
血も、剣も、魔術もない場所。
出産という、
あまりにも静かな戦い。
『もし、私に何かあったら』
まだ彼女が生きていた頃。
夜の灯りの下で、そう言われた。
『皇帝陛下は、何をするか分からない。
だから、この子をお願い』
その声は、強くも弱くもなかった。
ただ、未来を見据えていた。
ミリアは、その場で頷いた。
「必ず」
それが、約束だった。
その言葉が、
どれほど重い意味を持つのか――
その時の彼女は、まだ理解していなかった。
*
それからの数年間。
ミリアは、帝国に在籍し続けた。
国家魔術師。
帝国軍魔術部隊総隊長。
守るべき部下がいた。
背負うべき立場があった。
自分が抜ければ、
失われる命があると思っていた。
その間に、
リオルの噂は、断片的に耳へ届いた。
病弱な親王。
期待されない存在。
皇族でありながら、名を持たぬように扱われる子。
「使えない」
「不要だ」
そんな言葉が、
皇城の空気として流れていることも知っていた。
胸は痛んだ。
だが、動かなかった。
(まだだ)
(今は、まだ動けない)
そう言い聞かせながら。
それは準備ではなかった。
ただの――先延ばしだった。
*
三年前。
帝国は、決定的に一線を越えた。
獣人の粛清。
功績ある者の切り捨て。
命を「資源」と呼ぶ会議。
その場に立った瞬間、
ミリアは悟った。
――この国は、もう守る場所ではない。
だから、去った。
帝国を。
地位を。
過去を。
アルトレス領へ。
それは逃亡であり、
同時に、生き直すための選択だった。
ゼクロアと出会い、
言葉を交わし、
同じ怒りと理想を持つことを知った。
三年。
その時間をかけて、
ようやく「守れる場所」を整えた。
それでも――
心の奥には、まだ残っていた。
帝国への、最後の未練。
「本当に、すべてを捨ててよかったのか」という問い。
*
そして、現在。
知らせは、アルトレス領にいるミリアのもとへ届いた。
――親王が、奴隷商に売られた。
その一文を読んだ瞬間、
胸の奥で、何かが音もなく崩れ落ちた。
怒りでも、驚愕でもない。
理解だった。
――ああ。
――私は、もうとっくに帝国を捨てていた。
この知らせは、新しい決断ではない。
それは、
最後に残っていた未練が、完全に死んだ瞬間だった。
戻る場所は、最初から存在しなかった。
振り返る理由も、もうない。
*
そして今。
あの子は、ここにいる。
傷を抱え、
怯えを抱え、
それでも、生きている。
「……生きていてくれて、ありがとう」
それが、今の正直な気持ちだった。
今日、リオルと向き合ったとき、
過去を聞かなかったのは、優しさではない。
――聞く資格がない。
守れなかった者が、
傷の理由を問うべきではない。
だから、ただ伝えた。
「あなたは、約束の子」
それは、
母との約束であり、
自分自身への誓い。
(今度こそ)
(今度こそ、私は逃げない)
帝国が来るだろう。
皇帝も、必ず動く。
それでも。
この子は、もう“捨てられる側”ではない。
迎えられた子。
選ばれた子。
――約束の子。
ミリアは、机に置かれた書類へ手を伸ばした。
未来のための準備。
守ると決めた「今」は、
もう、過去へは戻らない。




