11話 約束の子
港から屋敷へ戻る道は、行きよりも静かだった。
潮の匂いが、まだ服に残っている。
歩くたび、靴底に石畳の感触が返ってくる。
「……つかれた……?」
リオルが恐る恐る尋ねると、
ヴォルクルは首を横に振った。
「問題ない」
嘘ではない。
けれどリオルには分かっていた。
――自分の方が、少し疲れている。
身体ではなく、心が。
港で人と話し、
役に立ち、
優しくされた。
嬉しかった。
だが同時に、怖くもあった。
「……ヴォルクル……」
「どうした」
「……このあと……」
言葉が、続かない。
ヴォルクルは歩みを緩め、視線を落とした。
「会う人がいる、と言ったな」
小さく、頷く。
「伯爵夫人だ」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
――試される。
――判断される。
――価値を決められる。
無意識に、そんな言葉が浮かぶ。
「……こわ……」
小さな呟き。
ヴォルクルは、立ち止まった。
人通りの少ない道。
風の音だけがする。
「聞いておけ」
低い声。
「その人は、お前を量らない」
断言だった。
「……どうして……?」
「量る必要がないからだ」
それ以上、ヴォルクルは語らなかった。
*
屋敷に入ると、空気が変わる。
外の風は遮られ、
代わりに、木と石と人の気配が満ちている。
「こちらへ」
リチャードが静かに導く。
「リオル様、無理はなさらぬよう」
その一言が、自然に胸に落ちた。
応接室の前で、ヴォルクルが足を止める。
「……ここから先は……」
「分かっている」
ヴォルクルは静かに答えた。
「だが、近くにはいる」
それだけで、十分だった。
扉が閉まる。
広い部屋。
窓から光が差し、埃がゆっくり舞っている。
椅子に座り、
リオルは膝の上で指を強く組んだ。
――怒られない。
――殴られない。
分かっている。
それでも、身体は覚えている。
扉が、音もなく開いた。
振り向いた瞬間、空気が変わった。
入ってきたのは、一人の女性。
落ち着いた身のこなし。
装飾の少ない服装。
そして――戦場を知る者の立ち方。
「……はじめまして」
押しつけのない声。
「私は、ミリア・アルトレス」
名を聞いた瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。
「……リオル……です……」
一瞬、迷ってから続ける。
「……リオル・アルトレス……」
その名を口にした瞬間、
ミリアの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
だがすぐに、穏やかな微笑みに戻る。
「ええ。リオル」
敬称は付けない。
けれど、距離も感じない。
「港に行っていたそうね」
「……はい……」
「どうだった?」
短い問い。
急かさない声音。
「……にぎやか……でした……
……こわく……なかった……」
その言葉を聞いたとき、
ミリアは、静かに息を吐いた。
「そう……」
それは、長く溜めてきた何かを下ろすような仕草だった。
「それなら、よかった」
それ以上、何も聞かない。
評価もしない。
詮索もしない。
「……どうして……」
思わず、口をついて出た。
「……なにも……聞かないんですか……」
ミリアは、少しだけ首を傾げた。
「必要になったら、あなたから話すでしょう?」
当たり前のように。
「私は、それを待つわ」
“待つ”。
その言葉が、胸に引っかかる。
「……ねえ、リオル」
ミリアは、ほんの少しだけ距離を縮める。
触れない。
だが、逃げ場も塞がない。
「あなた、ずっと“平気なふり”をして生きてきたでしょう」
心臓が、強く打った。
「それはね、とても強いことよ」
一拍置いて。
「でも……疲れるわ」
責める声ではない。
知っている人の声だった。
「……どうして……」
ミリアは、一瞬だけ視線を伏せる。
「昔」
過去形で語り出す。
「あなたのお母さんと、親友だったの」
世界が、止まった。
「同じ戦場で、何度も一緒に生き残った」
淡々とした言葉が、重い。
「あなたが生まれる前、言われたわ」
ミリアの声が、わずかに震える。
「『もし私に何かあったら、この子をお願い』って」
沈黙。
「……守れなかった」
その一言に、十年分の後悔が滲んでいた。
「だから」
ミリアはゆっくりと膝を折り、
リオルと同じ高さに視線を合わせる。
「今度こそ、逃がさない」
それは命令でも、宣言でもない。
誓いだった。
「あなたは、約束の子なの」
胸が、苦しい。
だが同時に、
何かが、静かにほどけていく。
「……ぼく……」
震える声。
「……ここに……いて……いい……?」
ミリアは、迷わなかった。
「ええ」
即答。
「同情でも、慈善でもない」
そっと、頭に手を置く。
「迎えられたからよ」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
涙は出なかった。
ただ、息がしやすくなった。
「……はい……」
小さな返事。
それで、十分だった。
扉の外。
ヴォルクルは静かに目を閉じる。
――ようやく、だ。
約束は、まだ途中だ。
だが、確かに始まった。
ここから先、
リオルはもう独りではない。




