10話 潮の匂いと、はじめての役目
港に近づくにつれ、空気が変わった。
潮の匂い。
濡れた木材。
魚と網と、金属の気配。
「……うみ……」
思わず零れた声に、リオルは足を止めた。
目の前に広がる光景は、想像していたよりもずっと大きい。
波止場に並ぶ船。
忙しなく行き交う人々。
獣人、ドラゴニュート、人間。
種族の違いなど気にしていないかのように、声を張り上げ、働いている。
「ここが、港町だ」
隣でヴォルクルが言った。
今日は外出用の服装だが、護衛としての気配は隠していない。
それでも、この港の喧騒の中では溶け込んでいた。
「アルトレス領の心臓みたいな場所だ」
「……いきてる……」
無意識に出た言葉だった。
港は、確かに生きていた。
*
魚市場は、特に活気がある。
籠いっぱいの魚。
甲殻類。
海藻。
「おう、ヴォルクル!」
声をかけてきたのは、屈強なドラゴニュートの男だった。
「今日は護衛か?」
「案内だ」
ヴォルクルはそう答え、リオルを見る。
「アルトレス家の子だ」
一瞬、視線が集まる。
だが次の瞬間、男は豪快に笑った。
「そうか!
……細いな」
言葉は率直だが、悪意はない。
「ちゃんと食ってるか?」
「……はい……すこし……」
小さく答えると、男は満足そうに頷いた。
「よし。
なら、これ持ってけ」
差し出されたのは、小ぶりな魚だった。
「今朝獲れだ。
骨も柔らかい」
「……え……」
「坊ちゃんにゃ、栄養が必要だろ」
当然のように言われて、言葉を失う。
ヴォルクルが軽く頭を下げた。
「ありがたい」
「気にすんな。
港は、持ちつ持たれつだ」
“持ちつ持たれつ”。
その言葉が、胸に残った。
*
市場の端で、荒い声が響いた。
「だから、量が合わねぇって言ってんだろ!」
「こっちは確かに積んだ!」
木箱の前で、商人と船員が睨み合っている。
周囲がざわつくが、誰もすぐには口を出さない。
「……なに……?」
リオルが小さく尋ねた。
「取引の食い違いだ」
ヴォルクルは静かに答える。
「放っておけば、揉める」
リオルは、木箱を見つめた。
刻まれた印。
札に書かれた積み荷の一覧。
――多い。
理由は分からない。
けれど、直感がそう告げていた。
「……あの……」
気づけば、声が出ていた。
二人が振り向く。
「……はこ……ひとつ……
……ちがう……」
商人が眉をひそめる。
「坊ちゃん、何を――」
リオルは、震える指で木箱を指した。
「……これ……
……べつ……」
視線が集中する。
「魚の箱に……
……かいそう……」
沈黙。
船員が、慌てて札を確認する。
「……あっ」
声が裏返った。
「積み替えのときに、混ざった……」
商人が舌打ちする。
「だから数が合わなかったのか」
張り詰めていた空気が、すっと緩んだ。
「……ありがとうな、坊ちゃん」
商人が、リオルに頭を下げる。
「助かった」
その言葉に、リオルは固まった。
――助かった。
自分が。
「……い、いえ……」
声が震える。
けれど、確かに今――
自分は、役に立った。
ヴォルクルは黙って見てから、
リオルの頭に、そっと手を置いた。
「よく見ていたな」
低く、確かな声。
「……できて……よかった……」
ぽつりと漏れた本音。
ヴォルクルは否定しない。
「できた。
それが事実だ」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
*
港を一回りし、波止場の端で休む。
海が、きらきらと光っている。
「……うみ……ひろい……」
「そうだ」
ヴォルクルも、同じ方向を見る。
「だが、道でもある」
「……みち……?」
「港は、人と物と情報が行き交う場所だ」
一拍置いて、続ける。
「帝国も、ここを見ている」
その言葉に、リオルは少しだけ身を強張らせた。
「……でも……」
恐る恐る、言う。
「……こわく……なかった……」
「そうだな」
ヴォルクルは頷く。
「今日は、お前が“こちら側”に立っていたからだ」
こちら側。
守られるだけではない。
見て、考えて、関わる側。
リオルは、海を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。
潮の匂いが、胸いっぱいに広がる。
「……また……きたい……」
小さな願い。
ヴォルクルは、短く答えた。
「連れてくる」
約束のように。
この日、リオル・アルトレスは初めて思った。
――生きているだけじゃない。
――ここで、役に立てるかもしれない。
波の音が、その思いを静かに包んでいた。




