9話 風のある場所
屋敷の門を出た瞬間、リオルは立ち止まった。
風が、違う。
石と鉄の匂いではなく、
土と草、どこか甘い香りを含んだ空気が肺に流れ込む。
「……そと……」
思わず零れた声は、かすれていた。
「今日は、領を案内する」
そう言ったのは、ヴォルクルだった。
燕尾服ではなく、動きやすい外出用の服装。
だが、背筋の真っ直ぐさは変わらない。
「無理はさせない。
歩けるところまででいい」
「……はい……」
リオルは、小さく頷いた。
屋敷の敷地を抜けると、道はなだらかに下っていく。
畑が見え、家々が並び、遠くで人の声がした。
「……ひと……」
「領民だ」
ヴォルクルは歩調を落とし、リオルの隣を歩く。
「アルトレス領は、獣人が多い。
帝国では、嫌われる種族だ」
その言葉に、胸が小さく波打つ。
嫌われる。
排除される。
売られる。
――自分が、そうだった。
だが――
「あ、ヴォルクル!」
声が飛んできた。
振り向くと、狼獣人の男が手を振っている。
その隣には、猫獣人の子ども。
「久しぶりだな」
「仕事か?」
「いや、案内だ」
ヴォルクルはリオルを見下ろしてから言った。
「アルトレス家の子だ」
一瞬、視線が集まる。
だが、それは値踏みでも、警戒でもなかった。
「……そうか」
男は、短く頷いた。
それだけ。
拒絶も、詮索もない。
リオルは戸惑いながら一歩前に出て、
ぎこちなく頭を下げた。
「……リオル……です……」
「おう」
男は笑った。
「元気そうで何よりだ」
“元気そう”。
その言葉が、胸に引っかかる。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
*
市場に近づくにつれ、音が増える。
笑い声。
呼びかけ。
物を並べる音。
「……にぎやか……」
「生活の音だ」
ヴォルクルはそう言った。
露店の一つで、老獣人が果物を並べていた。
腕には古傷。
背は曲がっているが、目は鋭い。
「おや」
リオルを見るなり、眉を上げる。
「……坊ちゃん、か?」
肩が、びくりと揺れる。
だが、老獣人は続けた。
「細いな。
ちゃんと食ってるか」
「……はい……すこし……」
「そうか」
老獣人はリンゴを一つ取って差し出した。
「栄養だ。
金はいらねぇ」
「……え……」
受け取っていいのか分からず、リオルはヴォルクルを見る。
ヴォルクルは、黙って頷いた。
「……ありがとう……ございます……」
恐る恐る受け取ると、
リンゴは、ずっしりと重かった。
生きている重さ。
老獣人は鼻を鳴らす。
「礼が言えるなら、上等だ」
*
少し離れたところで、子どもたちが集まっていた。
獣の耳。
尻尾。
笑顔。
「なにそれ?」
「髪、きれい!」
距離が、近い。
一瞬、身体が強張る。
だが、殴られない。
奪われない。
「……さわらない……で……」
絞り出すように言うと、
子どもたちはすぐに手を引いた。
「ごめん!」
「いやだった?」
――謝られる。
それだけで、胸が熱くなる。
「……だいじょうぶ……」
リオルは、ゆっくりしゃがみ込んだ。
目線が、同じ高さになる。
「……リオル……」
名乗ると、子どもたちは笑った。
「変な名前!」
「でも、覚えやすい!」
その無邪気さに、
思わず口元が緩む。
ヴォルクルは、その様子を少し離れて見ていた。
――この子は。
守られるだけの存在じゃない。
ここで、生きられる。
*
帰り道。
少し疲れたのか、リオルの歩幅は小さくなっていた。
ヴォルクルは何も言わず、速度を合わせる。
「……こわく……なかった……」
ぽつりと、リオルが言った。
「そうだな」
「……みんな……やさしかった……」
「この領は、そういう場所だ」
しばらく沈黙。
それから、リオルは小さく言った。
「……ぼく……
……ここで……いきて……いい……?」
ヴォルクルは立ち止まり、膝を折って目線を合わせた。
「いい」
迷いのない答え。
「お前は、親王でも、皇族でもある」
一拍置いて、続ける。
「だがここでは、
それより先に“アルトレスの子”だ」
頭に、温かい手が置かれる。
「居場所は、もうある」
リオルは、ゆっくりと息を吸い――
小さく、頷いた。
「……はい……」
風が、髪を揺らした。
それは、
初めて“外の世界が怖くなかった日”の風だった。




