第32話:傷ついた烏−1
第18章:仄黒い羽の隙間から。
夜の底に沈んだような、静かな谷だった。
そこに、かつて砦だったものの残骸がある。 崩れた石壁をそのまま利用して、粗い木材で継ぎ足し、穴だらけの天井に黒い布を張る。 冷たい風を遮るためだけの、最低限の隠れ家。
――数ある八咫烏のアジト。
中央の部屋。 粗末な円卓の上には、大陸全図と二つの国の地図が広げられ、ところどころに黒い駒と白い駒が置かれていた。 その前に、一人の男が座っている。
カラス。
八咫烏のリーダー。 黒髪を短く刈り込み、落ち着いた瞳。 闘士らしい分厚い肩と腕をしていながら、羽ペンを持つ指先の動きは、驚くほど繊細だった。
「……想定していたより、傷が深いな」
小さく呟く。
大陸地図のあちこちに、赤い印がついていた。 ウルシア王都。 軍事国家カエサル王都。 そして、封魔戦争ゆかりの遺跡群。
そこへ――
「ヒヒッ……おっそろしく冷えるアジトだな、カラス」
軋む扉と共に、ねっとりした声が入り込んできた。
背を丸め、腰を曲げ、いかにも性格の悪そうな笑みを浮かべた男。 コラキ。 極限まで炎魔法を極めた魔道士。
マントは焼け焦げ、腕には包帯、顔にはいくつも切り傷。 いつもの“余裕の笑み”を貼り付けてはいるが、その足取りは少しだけ重い。
「戻ったか、コラキ」
「まぁな。なんとか、なぁ……ヒヒッ」
カラスは顔を上げたが、すぐには何も聞かなかった。 その沈黙だけで、問われていることは一つだけだ。
――どうなった。
それを悟ったように、コラキは舌なめずりをして、円卓の向かいに腰を下ろした。
「まずは報告だな。成果と損失、両方だ」
「順番は任せる」
「じゃあ、いい話からにしようかねぇ」
コラキは懐から、黒い金属の塊を取り出した。
アーティファクト《コルト》。
握り込めるほどの大きさの銃。 しかし、その銃口から滲み出す“記憶”の気配は、普通の武器とは明らかに違っていた。
「コルトは無事持ち帰り。こいつがあれば計画を有利に進められるだろうぜ。ヒヒ」
「……そうか」
カラスの目が、わずかに柔らぐ。
コルトは、記憶改ざんのアーティファクト。 人の心も、場の記憶も、物質が覚えている“過去”さえも、書き換えることができる。
これだけでも、国家転覆級の代物だ。
「それから……厄介だった“セイレーン”の武装化能力だがね」
コラキは、愉快そうに笑った。
「壊した。あのガキが使いすぎたおかげで、おそらく魔力切れで粉々さ。二度と同じ方法で追跡されることはねぇな」
「……それは、大きいな」
短く頷くカラス。
セイレーンの武装化―― それによる「追跡」と「幻術看破」の能力は、八咫烏にとって最も厄介な天敵だった。
その脅威が、一つ消えた。
「――以上、成果だ」
そこで、コラキの笑みが、少しだけ薄れる。
「で、損失の方は?」
「……ヒヒ」
喉の奥で、笑いとも咳ともつかない声が漏れた。
「クエルボは死んだ」
「そうか…」
部屋の空気が、少しだけ冷たくなる。
クエルボ。 氷魔法の極致に至った、沈黙の射手。 コラキの相棒であり、八咫烏の中でも特に“手堅い”男だった。
「アーティファクト《デザート&イーグル》も、奪われた。 あの武装化のガキだ。クリスタルワイバーンだの黒龍だの、色々と抱え込んでる奴にねぇ」
コラキは、歯を見せて笑った。
「あのガキ、闘力も魔力もゼロだからよ。弱体化のイーグル喰らっても、全ッ然効かないの」
「……なるほど」
「でも、まぁ――」
コラキは片目を細める。
「あのガキは、無意識だとは思うが戦いに迷いがあったな、だからオレを殺さなかった。 ――王どものおもちゃにしておくには、惜しい」
カラスは何も言わなかった。
だが、その沈黙には、同意と警戒が混じっていた。
「後は?」
「以上。俺のところはそんなもんだ。 クエルボは、良い死に方だったよ。 少なくとも、あいつ自身は悔いなさそうな顔して死んでた」
コラキは立てかけた杖を軽く叩いた。
「……お嬢らのところは?」
◇
「ヴァリス、クレーエ。入れ」
カラスが呼ぶと、扉の外で控えていた巨躯の女が、ぐい、と頭を下げて入ってきた。
ヴァリス。 筋肉の鎧をそのまま纏ったような女闘士。 そして、その後ろに隠れるようにして、小柄な少女が入ってくる。
クレーエ。 怯えたような目をしながら、その背にとんでもない魔力を抱えたコピー魔道士。
「ただいま、カラス」
ヴァリスは、豪快な笑みを浮かべた。 頬には青あざ、腕には噛み傷、肩には斬り傷。 しかし、その目に曇りはない。
「帰還した。」
「報告を」
「端的に、ウルシア王都の制圧は……失敗
そして、成果は」
ヴァリスは背中に背負っていた巨大な斧を、そっと床に置いた。 砦が揺れるほどの重さ。
「クレーエ」
「う、うんっ」
小さな声を上げたクレーエが、両手を胸の前で組む。
次の瞬間、その背後に“竜王ウォール”が現れた。
硬い筋肉、竜のような目、獰猛な笑み。 先ほどの本人と寸分違わぬコピー。
「……竜王ウォールのコピー、取った」
カラスの目が、わずかに見開かれる。
「竜王はそちらにいたか」
「完全なコピーではない。けどね。 完全に仕上げるのは可能」
クレーエは、少し誇らしそうに、それでいて申し訳なさそうに俯いた。
「ご、ごめんなさい……いきなり完全には、無理でした……ウォール、本当に、強くて……」
「いや、十分すぎる、よくやった」
カラスは即座に答えた。
「ウォール本人の完全なコピーなど、今の段階で成功されても困る。 制御できん」
その言葉に、クレーエの肩が少しだけ震えを止めた。
「それから、損失の方ね」
ヴァリスは肩を回し、床に座り込んだ。
「ウルシア王都の制圧は完全に失敗。竜王ウォールと、パラディンどもに阻まれた。……強かったわ。あれは素直に認める」
「退き際を間違わなかったのは、評価に値する。よく戻った」
カラスの言葉は、いつも通り淡々としていた。 だが、二人にはそれが“最大の称賛”であることが分かっている。
「ウォールの実力は?」
「……一言で言うなら、“怪物”」
ヴァリスの表情から、初めて冗談が消えた。
「あたしとあたしのコピー二人――そこにクレーエの魔力をぶち込んで戦った、ほぼ三人分の本気を相手に、まだ余裕があった。 闘力の質が違う。あれは竜そのものね。 ……でも、癖は読んだわ。何発か、確かにいいの入れてやったし」
その言葉に、カラスは小さく笑った。
「そうか。では、竜王ウォールは攻略したも同然だな」
ヴァリスは鼻で笑った。
「軽く見られてる間に殺したかったんだけどね! まぁ、次よ、次」
◇
「次は、俺たちだな」
最後に、扉の外から静かな声が聞こえた。
クロウ。 二刀流の剣士。 その後ろに、包帯でぐるぐる巻きにされた左腕を吊ったカラスが続く。
カラスの右腕は、肩口から先が黒い布でぐるりと巻かれている。 魔法陣のような紋様が、そこから薄く漏れていた。
「まずは、失敗から報告しよう」
カラスはいつも通りの声で言った。
「カエサル王都の制圧は……叶わなかった」
静かな言葉。 だが、その背後にある戦いの激しさは、ここにいる全員が想像できた。
「想定していた竜王ウォールはいなかったが、想定外の聖騎士ローディオがいた。 結果として、我々はローディオ一人に足止めされ、王都への侵攻は不発に終わった」
そこで、一呼吸。
「ただし、“全て”失敗したわけではない」
カラスは封印された右腕を、逆の手で軽く叩いた。
「この腕は、ローディオの魔力と闘力を測るための“代償”だ。 封印術をフルで叩き込んだ結果だ、俺の腕がこの状態である以上ローディオの右腕も封印されている。 ――あの状況で右腕を封印できたのなら、次に会った時はヤツ自身を封印できるだろう」
クロウが、静かに言葉を継ぐ。
「ローディオは、闘力も魔力も桁外れだった。 にもかかわらず、どちらかに偏ることなく、完璧に使い分ける。 ……それでも、俺の本気は〈半分のローディオ〉ですら届かなかった」
クロウの喉が、ごくりと鳴る。
「それでも、“勝ち筋”は見えた。少なくとも、あれは不死身じゃない」
「そして、もう一つ」
カラスは地図の端を指で叩いた。
「残り二本の魔剣――《オニマル》と《ムネチカ》。 その所在に関する手がかりをつかんだ」
円卓の上に、新たな二つの印が刻まれる。
一つは、イーリス大陸の北端近く、雪と氷に閉ざされた孤島。 もう一つは、古い火山帯の中心。
「どちらも、封魔戦争以前の遺跡と深く結びついている。 この情報だけでも、やつらの死は無駄ではなかったと言えよう」
カラスはそこで、一度深く息を吐いた。
「――以上が、各隊の成果と損失だ」




