はい?なんでしょう???
王都の冬は長い。けれど今宵ばかりは、そんな冷たささえも忘れさせるほど華やかな夜だった。
王宮の大広間には百を超える燭台が輝き、鏡張りの壁に光が反射して、まるで昼のように明るい。
紅や金、深い群青のドレスが流れ、楽団が優雅な旋律を奏でる。
誰もが祝宴の主――王太子レオンハルトの姿を一目見ようと息を潜めていた。
若く聡明と謳われるその男が、ついに婚約者クラリス・リースを公の場で伴っていたからだ。
今日は祝福の夜になると信じていた。
だが、まもなくそれが――断罪の夜へと変わるとは誰もが思っていなかった。
クラリスは広間の片隅で、銀のカップを手にしていた。
いつもと変わらぬ表情。その瞳には退屈さえ漂っていた。
「本日、皆の前で重大な発表を行う!」
高らかな声が響く。人々のざわめきが波のように広がった。
彼の隣には、純白のドレスをまとった少女――聖女エレナ。
王都に現れた奇跡の巫女として崇められる存在であり、最近では王太子の傍らにいることが増えていた。
「クラリス・リース。前へ出よ!」
呼ばれた名に、会場が凍る。
クラリスはわずかに首を傾げ、ゆるやかに裾を持ち上げて前へ進んだ。
その一歩ごとに、周囲の空気が重く沈む。
だが彼女の顔には焦りはなかった。
やましいことなど、一切もしてないのだから。
王太子の視線は鋭く、まるで刃のように彼女を見据えていた。
「クラリス。お前の悪行は、すべて明らかになった」
楽団が演奏を止め、貴族たちが互いの顔を見合わせる。
彼女の悪行――そんな言葉は、誰も想像したことがなかった。
誰より礼儀正しく、慎ましく、そして完璧な令嬢。
そんな彼女が断罪されるなど、信じられないという空気が広がる。
「……悪行、でございますか?」
「そうだ!」とレオンハルトは叫んだ。
「お前は聖女エレナを陥れ、陰で罠を張っていた! 嫉妬のあまり、彼女の名誉を傷つけたのだ!」
エレナが小さく身を震わせ、白い指でハンカチを握りしめる。
「クラリス様……どうして、そんなことを……」
涙声が響き、場内に同情の色が広がる
だが、クラリスにはその言葉の意味が分からなかった。
何を言っているのだろう、と本気で首を傾げたくなる。
そもそも“恨み”以前に、彼女はこの聖女と話をしたことすらない。
招かれた慈善式典で遠目に姿を見かけたことはあるが、それきりだ。
会ったこともない相手に、どうしてそんな深い怨嗟を抱けようか。
王太子が声を張り上げる。
「惚けるな、クラリス! お前が彼女を妬んでいるのは誰の目にも明らかだ!」
「妬み、ですか?」
クラリスは小さく瞬きをして、そのまま柔らかく微笑んだ。
「殿下、わたくしは聖女様の奇跡を新聞で拝見しただけですの。妬むも何も、まずはご挨拶を交わしてからにしたいところですわ」
その言葉に、会場の空気がわずかに変わった。
貴族たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。
「初対面……?」「では、なぜ殿下は……」
徐々に疑念が広がるのを、クラリスはただ静かに見守った。
レオンハルトの頬が引きつる。
彼は言葉を探すように口を開き、すぐに勢いで押し切ろうとした。
「それは、だな……! 貴様が陰で聖女を陥れた証拠があるのだ!」
声を荒げれば自らの醜態を晒すと分かっていながら、黙っていることもできなかった。
エレナがびくりと肩を震わせ、懐から一通の封書を取り出した。
「こ、これです。クラリス様が、わたくしに……!」
ざわめきが広がる。
封蝋にはリース家の紋章が刻まれていた。
それを見た瞬間、数人の貴族が息を呑む。
「これが脅迫状だ!」
王太子は勝ち誇ったように叫んだ。
「“お前の母親の素性を暴く”――そう書かれていた! これでも否定できるか!」
エレナが涙を浮かべてうなずく。
「間違いありません……この字を、何度も見ました。クラリス様の筆跡です……!」
エレナは今こそ“聖女”として崇められているものの、その母親があまり良い所の出身ではなかった。
貴族社会では、公には語られぬが、裏では有名な話だ。
彼女の母は、かつて地方の商人に仕えていた使用人であり、結婚も正式なものではなかった。
それでも娘が神の加護を受けたとされ、王都に召し出されたことで、今や“奇跡の象徴”と呼ばれている。
だが、貴族たちの一部はその事実を快く思っていなかった。
王家の近くに立つ者としては出自が軽すぎる――そう言う者もいた。
だからこそ、この“脅迫状”に書かれた言葉は、聖女に対する侮辱のようなものだった。
辺りを見渡すと、嘲るような視線、ひそひそと交わされる噂。
だが、そのどれもがクラリスの表情を曇らせることはなかった。
彼女はただ一歩、静かに前へ出る。
「殿下、その手紙を拝見しても?」
「……見ろ。貴様の罪の証だ」
クラリスは差し出された封書を受け取り、指先で封蝋を撫でた。
指先の感触――微妙な違和感がある。
蝋の厚み、刻印の深さ、紙の質。
それらを確かめながら、ゆるやかに中身を取り出した。
「……あら」
短い吐息とともに漏れた声が、やけに響いた。
そして、彼女はふっと微笑む。
「殿下、こちら……残念ながら、わたくしのものでございませんわね」
「なに?」
「この封蝋、リース家の紋章ではございますが……刻印の位置が逆ですの。正式な印章は左向きの薔薇。けれど、これは右向き」
「……っ!」
「それに、筆跡も微妙に違います。確かに似ていますけれど、線が重たい。……わたくし、こんなに力を込めて書きませんの」
会場に再びざわめきが走る。
前列の貴族が目を細め、頷いた。
「確かに、印章は線が逆だ。細工されたものだな」
「だが、封はリース家のもので……!」
レオンハルトが声を荒げる。
クラリスはゆるやかに微笑んだ
「紋章は家の名誉のようなもの。それを間違えるなど、あってはならないことです」
彼女は封蝋を指先で撫で、光の角度を変えるように傾けた。
刻まれた薔薇の紋。その花弁の向きが、反対になっている。
「――右を向いた薔薇、ですわね」
クラリスがそう呟いた瞬間、数人の貴族がざわりと身じろぎした。
「リース家の正式な印章は左を向く薔薇。王国の紋章院にも登録されておりますの。殿下、この右向きの薔薇はいったい、どちらの家のものかしら?」
レオンハルトはそれ以上、何も言えなかった。
喉がひくりと動き、声にならない息だけが漏れる。
さきほどまでの威勢は影も形もない。
「どうした?」「反論はないのか?」
誰も口には出さないが、そのような周囲の視線が一斉に彼へ注がれる。
クラリスは手紙を閉じ、封蝋をそっと返した。
「殿下。こちらの封書は、どこで入手されたのか――お聞きしてもよろしいかしら?」
「そ、それは……」
レオンハルトの唇が震える。
「エレナが……彼女が、わたしに……」
その瞬間、会場の空気が冷たくなった。
視線が一斉に聖女へと向かう。
エレナの肩がぴくりと跳ねた。
白い手が小刻みに震え、握ったハンカチに爪が食い込む。
「わ、わたくしは……! ただ、真実を――」
「真実、ですの?」
クラリスは首を傾げ、問い返した。
「でしたら、ぜひ伺いたいものですわ。――この“偽の封蝋”を、どなたが押したのか」
誰もが悟った。偽造を働いたのが誰なのかという事を。
「そ、そんな……わたくしは……! ただ、殿下のために……!」
掠れた声が響く。だが、その言葉は火に油を注ぐようだった。
「殿下のため?つまり、殿下のご命令で“偽の封蝋”を押した、ということでしょうか?」
「ち、違う! 私は命じてなど――!」
レオンハルトが慌てて遮るが、その慌てぶりがすべてを物語っていた。
観衆の間に、抑えきれないざわめきが走る。
それはもはや噂ではなく、確信に近い空気だった。
クラリスは静かに一礼し、封書を侍従に返した。
「これ以上は、王家の方々の領分でしょう。わたくしが口を挟むことではございませんわ」
彼女のその一言が、まるで幕を下ろす鐘の音のように広間を満たした。
レオンハルトは何かを言おうとしたが、もはや言葉が出なかった。
◇
そして――あの騒動から一週間後のこと。
王都中に、ある噂が一斉に広がった。
あの“断罪の夜”で掲げられた手紙は、やはり偽造された文書だったという。
目的はただひとつ――クラリス・リースを婚約破棄に追い込むため。
調査の結果、手紙の作成には聖女エレナの身内が関わっていたことが明らかになった。
彼らは王太子との縁を確固たるものにするため、印章を模倣し、嘘の書簡を作り上げていたのである。
だが、皮肉にもそれだけでは終わらなかった。
調べが進むうち、エレナ自身が“聖女”として集めた寄付金や救済金を私的に流用していた事実まで発覚したのだ。
王宮は即日、聖女の称号を剥奪。
王太子レオンハルトは婚約の解消とともに、しばらくの謹慎を命じられた。
一方、クラリス・リースは改めて無罪を宣言された。けれども彼女は何も弁明せず、ただ静かにこう言ったという。
「殿下の見る目のなさを責める趣味はございませんわ。次に選ばれる方が、もう少し真実を見抜ける方であれば――それで十分ですの」
王太子と偽りの聖女の断罪劇。
それは祝宴から始まり、滑稽な結末で幕を閉じたのだった。




