第二章5 君しか知らない
良いわけない
3週間前に約束した日が、ようやく来た。
昼公演と夜公演の合間、スマホを開いたソジュンは、ソウル旅行を口実にやっと手に入れたリョンインの連絡先を確認して、口元が緩む。
「フロントで名前言ったら、鍵渡してもらえるようにしておくから、部屋で待ってて。多分、遅くなると思うから寝てていいよ」
そうメッセージを送ってから、ソジュンはステージへ向かった。
ライトと歓声に包まれると、自分の体を外から操っているような感覚がある。
全能感に溢れた熱狂の波に乗る自分と、その波を制御する自分。二つの自分を同時に抱えてライブを駆け抜けた。そうした二つの意識の交錯のうちに、一種の透明な陶酔が生じる。
意識は衝動に明け渡しながらも、どこかで外から自分を見ているもう一人の自分の視線。
公演を終えた後も、心臓はまだ速く打ち続けていた。
全身の奥から熱が抜けず、照明の残像が網膜にこびりついて離れない。
世界の光がすべてぎらぎらと目に刺してきて、衣擦れの音すら拾うほどすべての音が響く。
そのままホテルのカードキーをタップして部屋に入ると、リョンインがベッドの上に身を投げ出して眠っていた。
手にはスマートフォンを握ったまま、浅い呼吸のたびに身体がゆっくりと上下している。
半ズボンからは白い脚が伸び、めくれたシャツの隙間からへこんだ腹が覗く。
かつて触れたことのある体が、無防備に投げ出されている。
その事実に、衝動が、すべてを飲み込むように膨れ上がっていく。
遠くの意識でどこかに冷静な自分が居る気がするが、何を止めればいいのかが分からないまま、足がベッドに近づいていた。
リョンインの体に覆いかぶさるように、寝顔の横に手をついて両側を囲う。
寝ぐせがついて髪が跳ねている額にキスをすると、ふわりとした匂いが鼻先をくすぐった。
ガチャガチャとベルトを外して前を寛げ、ふわふわとした浮遊感に溺れるまま、リョンインの服を脱がそうとする手だけは器用に動いていた。
脱がすときに触れた手の冷たさにリョンインが目を覚ます。
「……ん、おかえり」
リョンインは見下ろしていたソジュンと目が合うと、ぼんやり見つめて、一拍置いてから、ふわっと微笑んだ。
「リョンイン…」
好きだ。可愛い。愛してる。
もう駄目だ。もう誰にもやれない。俺のものだ。脱がした前開きの服の下に手を滑り込ませて、その肌に触れる。
動揺する声が、水中の奥の方で聞こえる音のように届いた気がした。
そして衝撃が、みぞおちに訪れた。
「何してんだ!」
思いっきり蹴られて正気に戻り、そのままベッドの下に転がり落ちた二度目の衝撃で完全に目を覚ました。
寛げていたものをズボンにしまい込んでベッドの上を覗くと、脱がされかけたシャツを押さえながらリョンインが眉を吊り上げて睨みつけていた。
あー、やっちゃった、とソジュンは自分がしたことを把握する。
「ごめん、間違えた」
「…間違えた? はぁ? 誰と?」
もう片手に握っていた枕を振り上げたリョンインに、慌てて腕を上げて防御する。
「いや、誰とかじゃなくて、間違えたっていうか」
「はあ?」
「いや、まぁ、お前ってことは分かってたんだけど」
「ふーん」
枕を下ろしたリョンインが、じろりと睨む。
「…え。お前って分かってたなら良いってこと?」
「良いわけないだろ!この変態!」
リョンインが再び、枕を振り上げる。
「元々付き合ってたんだし、変態ってことはないだろ」
到底怒りが収まりそうにないリョンインに、ソジュンはもう開き直ることにした。
「はあ?」
「俺は結構、お前で抜いてたけど」
「最悪!なに言ってんだ!」
「なんだよ…お前から俺を好きになったくせに」
「馬鹿じゃないの!」
「違うのかよ」
真剣な顔で目を合わせると、リョンインがぐっと図星の顔をして、視線をそらす。
「でも、したいなんて、僕は思ってなかったもん。最初だって、そっちが手を出した」
段々と小さくなっていく声は、最後には消え入りそうだった。
「同意の上だっただろ」
「かなり強引だった」
真っ赤になった顔をそらすリョンインを見て、ソジュンはため息をついて頭をかいた。
「あーやっぱ、一回外出ててくれない?」
正気に戻ったとはいえ、このままだと、手を出さないでいられるか自信がなかった。
リョンインの態度が生意気なほど、分からせてやりたいと思うのか、脳が興奮してそれが下半身にも直結していた。
「そしたら女の人呼ぶの?」
「呼ばないよ」
お、なんだよ。可愛いこと言う。そう思って、不安そうに見上げて少し膨らませている頬に触れようとすると、パシッと振り払われた。
「嘘つき。さっきみたいに相手を確認しないでも平気なくらい手慣れてたくせに」
リョンインが吐き捨てるように言う。
「だから違うって」
「変態、性犯罪、クソ野郎、ヤリチン、最低」
繰り出される暴言に耐えかねて、ソジュンはつい言い返す。
「あのなぁ、俺は兵役後もお前と一緒になるつもりで、お前から消えた癖にその後何年も遊ぶなっていうのかよ」
そういうとリョンインは俯く。そして、しばらく沈黙を取って、それから聞き逃しそうなほど小さい声でつぶやいた。
「 …でも、僕は、他に誰も知らない」
その言葉に、ソジュンは息を詰めて天井を仰ぐ。
こいつめ、なんて罪深い野郎だ。
一体、どうしたいんだ俺を。
「あー、もう! お前って俺を喜ばせたいのか、拒絶したいのか全然分かんない!」
リョンインはもう黙り込んで、赤い顔を隠すように膝に顔を埋めていた。
「えー俺、あの、本当にヤバいんだけど」
「リョンイン」と呼び掛けて、顔を向かせようとしても、頑なに黙り込んでいた。
「…じゃあ、まあ、トイレ使うから」
いつまでも膝を抱えて顔を隠すリョンインを残してベッドから降り、リョンインに返すつもりで持ってきたこの間の服を掴んでトイレに向かう。
「お前も風呂使う?」
「使わない!」
部屋を出るところで振り返り、軽口を投げかけると、やっと返事が聞こえた。
自己処理で事を終えた俺は、すっきりした頭と失った気力と共にトイレから出て、洗面所でメイクを落とした。
部屋に戻ると、リョンインはベッドの上で膝を抱えてこちらを見ていた。
携帯をいじるか寝てればいいものを、わざわざ、自ら意識せざる得ない環境を作って自分を追い詰めている。
本当にこいつはどういうつもりなんだ。
今も素知らぬ顔をしているつもりなんだろうが、動きがぎこちない。
その様子に、せっかく抜いた欲を、再び膨らまされては堪らない。
可愛すぎれば憎らしい。
先ほどまで使っていたリョンインの服を、わざと下品なジェスチャーと共に投げ渡した。
「ありがとう。おかげさまで、すっきりした」
頭に引っ掛けられた服と下着を確認したリョンインの顔が、瞬間的に赤くなる。
「使っていいなんて言ってない!」
「うるせー」
生意気なその頭をぐしゃぐしゃにして、最後に軽く叩く。
テレビ台の下の冷蔵庫から水を取り出し、リョンインの横に腰を下ろして、冷えた水を一気に飲み干す。
赤い顔でこちらを睨んでいるのを横目で見ながら、空になったボトルをテーブルに置き、ふーっと息を吐いた。
振り返ると、リョンインはまだこちらを見ている。
白い肌が紅潮して、噛んだ唇が濡れているのが光っている。
その顔を真正面から見ると、先ほど水を飲んだばかりの喉がひりつくほど渇いた。
あぁ、くそ。欲が再び兆してくるのが分かる。
そんな世界一可愛い造形で、睨むなよ。というか、煽るなよ。
俺の理性を試してるだろ。
なぜこんな修行のような目に合わせられるのか、この可愛くて憎らしい生き物を前にして、俺は心底自分を憐れんだ。
再び目を合わせると、二人に間にそういう空気が流れているようで、わざとらしくスーっと歯で息を吸って気まずさを誤魔化す。
「…なにする?」
「寝る」
リョンインはむすっとした顔で、間髪入れずに流れていた空気をぶった切る。
ソジュンが嚙みしめるように「はい」と頷く間に、さっさとベッドの中に入っていった。
ソジュンもその横に入り込もうとしたが、
「そっちで寝て」
と冷たく言い放たれる。
「…おやすみー」
誤魔化すように軽く言いながら、めくった布団を戻し、ソジュンは隣のベッドへと引き下がった。




