第二章1 チョコパイのケーキ
釜山の街は、どこを歩いても潮の匂いがする。
ツアーや撮影でこの街に来るたび、ソジュンは時間の許す限り一人で街を歩いた。
表通りも、裏路地も、大学のキャンパスも、埠頭沿いのカフェも。
人の居ない夜中も、朝も。
どこかに、彼の影があるのではないかと探していた。
兵役に入った最初の訓練兵のころはひたすらに苦痛だった。
慣れないきつい訓練や、好きに風呂にも入れない環境。
芸能活動をしている上に人当たりの良い方ではない俺は、周囲の目を引きすぎていた。
表立っていじめられることはなかったが、妙に腫れ物のように扱われ、余所余所しい壁を感じる。
居心地は悪く、陰口を叩かれることもしばしばだった。
環境にも慣れたころ、同じ部隊に配属されたルームメイトがリョンインだった。
まわりが上等兵の起きないうちに掃除を終わらせるために自分の事で必死になる中、朝の弱い俺をいつも起こしてくれた。
世俗の匂いをまとわず、芸能人である俺のことを特別視もしない。
どこか古風で、同世代とは違って見えた純粋さからリョンインは周りからも可愛がられていた。
リョンインと親しくなるうちに、自然と周囲とも上手くやれるようになっていた。
彼の穏やかな空気が、俺のぎこちなさを和らげてくれたのだろう。
仲間たちが冗談を言い合う輪に、気づけば俺も混じって笑っていた。
週に一度の宗教行事では、カトリックの俺たちは揃って聖堂へ通った。
俺は貰える菓子とコーヒーが半分目当てだったが、リョンインは敬虔な信徒らしく礼拝に参加していた。
よく喧嘩もした。
厳しい訓練と粗末な宿舎の生活は、皆疲れていて、親しいもの同士ほど諍いが絶えないのは当然だった。
ソジュンは年上であったから、リョンインを可愛がるという余裕を装いながらも、子供じみているとは分かっていてもムキになってしまう自分が、しばしば争いの火種を撒いた。一方で、諍いを長引かせるのは、存外に頑固で意地っ張りなリョンインであった。
それでも、口を利かぬまま眠りについた翌朝でも、彼は変わらずソジュンを起こした。ただし、意地があるのか、それが自分だとバレないように、わざと素知らぬ風を装っていた。
また、日が長引いた時には、仲間と談笑していると輪の外から、遠巻きにこちらを見ていた。
そうした姿に絆されて、結局折れるのはいつもソジュンであった。
だから、ある時、喧嘩中にリョンインから声をかけてきたときは、彼から折れるなんて珍しいと思った。
「お誕生日だから」
そう言って差し出したのは、チョコパイを重ね、その上にヨーグルトをかけて、一本のローソクを立てたものだった。
重ねたチョコパイに、俺の誕生日を祝ってくれるために取っておいたのだと思うと、泣きそうになった。
ありがとう、ごめんね。と俺から謝ろうとした瞬間、
リョンインが「…寂しかったです」と言った。
喧嘩をしていて第一声が「ごめんなさい」ではなくて、それなのがいじらしくて、膝の上にぎゅっと握られていた拳に手を重ねてほどいた記憶がある。
俯いていた顔を上げたリョンインと目が合って、少し濡れている目で自分を見上げているのを見たとき胸が苦しくなった。黒い睫毛がたくさんの光を集めてキラキラとしている。
好きだと思った。
出されたチョコパイをフォークで崩し、ひとかけらつまんで食べる。口に入りきらなかったチョコパイを手で折って、片割れをリョンインに差し出す。
「いらない」
赤い顔をしていた。俺が彼を好きだと思っていることが、彼には分かっているようだった。
「おいしいよ」
「ん」
リョンインの口に押し付けると、抗うこともなく、熱に浮かされた目で、されるがままチョコパイを食べていた。
リョンインはいつも俺に特別をくれていた。
それは、たとえば、このチョコパイだったり、行軍で擦りむいた傷をふさぐ絆創膏だったり、分け合って差し出された多い方のインスタントコーヒーだったり。
この子は俺の事が好きなんだ。
だから、当然のように唇に触れて、控えめに続きを拒む言葉を無視して抱いた。
最後の十か月、俺たちは軍事境界線の近傍に配属された。
雪の山岳、獣の気配、風を裂く銃声の残響。
「雪の中にいると音が消えますね」
深夜の見張りの時間、寝ずの番では、リョンインは雪に紛れて小さな声で、いつも同じ歌を歌っていた。
「いつも歌う曲、歌って。あれ、なんて曲?」
英語の歌で歌詞は分からなかったけど、ラブソングなんだろうなということは分かっていた。
「You're All I Need To Get By」
「好きなの?」
「うん」
緊張の続く日々の中、体中が痛んでも、その声だけで救われる気がした。
目を閉じて歌っているリョンインにキスをする。
冷えきった空気の中で交わす口づけは、触れ合ったところが火傷するように熱く感じた。
口を塞いだのは自分だけど、歌声が途切れてしまうのは惜しかった。
乾いていた唇が互いの唾液で湿る。
ソジュンは、そっとリョンインの唇をつつくように舌を滑り込ませると、唇が素直に開く。舌先で上顎をなぞるとリョンインの体が震えた。
唇を離すと、互いの肌が吸い付き合うように離れていく。
肩で息をするリョンインの涙で滲んだ目を見て、歌っている時に呼吸を奪うのは苦しかったかもしれないなと、他人事のように考えた。
息が落ち着きそうなところで再び口づけようとすると、遮るようにリョンインの唇が小さく開き問う。
「なんでいつも、この歌、歌うと、キスするの」
息が続かないようでたどたどしく言って、抗議するようにきゅっと口を結んでこちらを見た。
あぁ、なんでこんなに可愛いんだろう。
軽くもう一度口づけて、
「好きだよ、リョンイン」と教えてやる。
幸せだと俺は何でか涙が出そうで、目頭が熱くなった。
今この瞬間が続くために、なんなら今死んだっていいかもしれない。
ずっと続けばいい。
「ずっと俺のために歌って」
雪に包まれる寒さの中で、彼の体温だけが確かなもののように思えた。
なのに、除隊して連絡を取ろうとしたその瞬間から、彼は消えた。
入隊時期の関係で俺より数週間ほど時期がズレて除隊したリョンイン。
電話は繋がらない。
メッセージも返ってこない。
理由も分からないまま連絡が取れなくなり、何かあったのかと最悪の想像もした。
軍に問い合わせても個人情報は教えてもらえなかったが、
必死に何度も問う俺に、生きているという事だけは教えてくれた。
思えば、彼は自分自身の情報をあまり言わなかったことに、こんな事になってから気づいた。
好きな曲も、頬の柔らかさも、嫌いな食べ物も、
泣くとき、笑うとき、気持ち良いとき、怒るとき、どんな時の声もすべて知っているのに、
今知りたいことは何も知らなかった。
唯一聞いた覚えがあった「釜山の大学に通っている」という情報だけを頼りに、釜山に来るたびに街を歩いた。
大学街を、埠頭を、仕事の合間に、ファンに見つからないよう帽子を深くかぶり、リョンインがいつも歌っていた曲をイヤホンから流して歩く。
ネットで探して初めて元の曲を聴いたとき時は、リョンインが歌っていたよりも凄く明るくて笑ってしまった。
もう一度、彼が歌うのを聴きたかった。
彼が、今でもこの曲を歌うときは、俺にキスされるのを待っていれば良いのに。
ソジュン自身、幾度か新しい恋人を作ったこともあった。だけどそれは、寂しさの代替品に過ぎず、夜空に星が降るとき、思い出すのは常に、歌う彼の横顔だった。
だから、その日。雑踏の中でふと目に入った背中に、呼吸が止まった。
見間違えるはずがない、あの肩の傾き、首筋の線。
息を呑むより早く、声が出ていた。
「……リョンイン?」
振り返った彼の顔を見た瞬間、泣きそうになる。
街のざわめきが遠のいていく。
七年の時を経た彼は、頬の柔らかさが消えて、立体的な顔が際立っていた。
けれど間違いなかった。
7年探し続けた人。夜ごと思い出す声の持ち主。
お前の熱に触れられなくなって、お前の声が聴こえなくなってから、
満足に眠れなかったんだ。
問いも怒りも涙も、すべて喉につかえて声にならない。
リョンインは司祭服を着ていた。それでなんとなく分かってしまった。
あぁ、そういうことかと腑に落ちたからかどこかで冷静な自分がいた。
ソジュンに気づいた彼は、手にしていた紙袋を落としたが拾うこともなく、背を向けて逃げ出すように去ろうとした。
反射的に腕を掴んだ。
「リョンインだろ?なぁ、逃げるなよ」
口にすると、7年という年月の重みが、一気に胸にのしかかってきて、呼吸が乱れた。
「離して!」
つんざくような叫び。
きっと俺は、傷ついた顔をしていたのだろう。
目が合ったリョンインの表情が、一瞬、小さな生き物を踏み潰してしまったような苦痛に歪んだ。
彼の声に周囲の人々が振り返り、視線が集まる。中には、俺の正体に気づき始めた者もいた。
「……とりあえず、移動しよう」
ソジュンはリョンインの手を引いて雑踏から身を離した。
ソジュンに伴われてホテルの一室に入ったリョンインは、血の気を失って蒼ざめていた。
ベッドの縁に腰をかけたまま、指先がかすかに痙攣している。
ソジュンはベッドサイドに立ち、言葉を選びあぐねたものの、ただ事実を確かめることにした。
「それが理由?司祭になったんだな」
視線をおそるおそる向けられると、いじめられる小動物が反射的に身をすくめるのを見るようで、自分が悪い事をしているような後ろめたさが胸に浮かんだ。
「あ………」
言葉が出ないようで、すぐに消えてしまいそうな声が返ってくる。
「そんな顔するなよ。別に今さら、もう怒ってない」
「ごめんなさい」
強がって『過去のこと』にしたつもりだった。けれど、その言葉を聞いたリョンインの顔が、痛みに触れたように歪んだ。
まだ気持ちが残っているように見える様子に馬鹿みたいに期待してしまう。
「リョンイン」
ソジュンは横に腰掛けた。
沈んだベッドの傾きに反するように体を離そうとするリョンインを、強く引き寄せる。
「やめて」
強張る体を無視して、体重を預け、その存在を確かめるように力いっぱい抱きしめた。
「しないよ。何もしないから…ちょっとこうさせて」
一度も染めたことがないやわらかい髪。肌に触れる体温。自然に咲く花のような匂い。
気持ちが良かった。このまま温かな泥濘にどこまでも沈み込みそうな気がした。
プレッシャーのかかる忙しい仕事のせいで続いていた不眠症も、今は遠い。
やがてソジュンは、安らかな寝息を立て始めた。
「…寝てる」
自分の体に顔を埋める男がスース―と音を立てだしたのを見て、リョンインは呆然する。
青い髪の隙間から覗く顔は子供のようで、リョンインに顔を引っ張っられても、まるで起きる気配がない。なのに抱きしめる腕だけは強くて、まるで離すまいとするかのようだった。
リョンインは諦めたように部屋の時計を確認してから、どうにかポケットからスマホを取り出した。アラームをセットし、リョンインも目を閉じた。
ピピピピと鳴るアラームの音で意識が戻った。ソジュンは、いつの間にか寝ていたことにはっとするが、いまだ腕の中にリョンインがいることに気が付いて安心した。こんなふうにすっきり目覚められたのは、どれほどぶりだろう。
「んっ……」
少し遅れてリョンインがゆっくりと目を覚ました。
「起きた?」と大きなあくびをして言う顔は、眠る前とは打って変わって平然としていて、それが妙に懐かしく思えた。
「今、何時?」
「10:00だよ。腕がしびれた」
そうリョンインは抗議すると、いい加減離せとソジュンの体を押しのけた。数時間、下敷きにされてしびれ切った腕をぷらぷらさせている。その恐る恐る腕を触って感覚を戻そうとしている姿に、つい、いじめたくなり手を伸ばす。
「しびれたの?ごめんね」と無遠慮につかむ。
「あぁっ!ちょっと!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ声に笑いながら、無遠慮にその腕を握り続ける。やがて「うぅ」と呻いたあと、「はぁ」と息を吐いたリョンインが顔を上げたとき、思いのほか距離が近くて二人とも固まった。
リョンインの視線が、どういうわけかソジュンの唇に釘づけになっているように見えた。
ただ目線を合わせないようにしているだけだろうが、熱心に見ているように見えるから、今なら触れてもいい気がして、ソジュンがそっと動く。
だが、それをきっかけとしたのかリョンインはするりと離れていった。
「僕、帰る」
した方が良かったのか、しなくて良かったのか。
直前で据え膳に逃げられたソジュンが後悔する間に、リョンインは、カソックの皺を伸ばして身なりを整えた。
最後に、目覚ましに使ったスマホを仕舞うのを見咎めて、ソジュンはとっさに声をかけた。
「連絡先」
「…教えない」
「なんでだよ」
「もう会わない」
「じゃあ、釜山中の教会を探して回る」
それが冗談や脅しではないことを、リョンインは分かるだろう。俺が執念深い事は散々知っているはずだ。教えてくれないなら、本当に釜山中の教会を探すか、このまま尾行するだけだった。
諦めない様子に観念したのか、リョンインはついに、自分のいる街だけを口にした。
「行ってもいいの?」
無理に聞き出したくせに、そんなことを問うと、リョンインが訝しげにこちらを見た。
「教会の門扉なら、そこは誰にでも等しく開かれています」
そう言い残し、リョンインは部屋を出ていった。
韓国には徴兵制があり、兵役義務があります。
19歳で徴兵検査を受け、28歳までに入隊が義務づけられています。一般的には大学で1・2年まで過ごしてから休学して兵役に就くケースが多いようで、神学生は2年生を終えて一括的に軍に入隊。
軍服務の後は10ヵ月ぐらいボランティア活動を経て約三年間ほど、神学校生活7年と足して10年かかり、やっと30歳前後で司祭敍品を受けます。
アイドルの場合は、活動の旬と被っているのもあり遅く行く人が多いようで、ソジュンは年上の設定です。
しかし、30歳前後と30+1~5歳の恋愛にしては子供過ぎる...かも...




