第四章3 ずっと好きだから
ソウルから釜山まで移動し、ソジュンが神学院の宿舎に辿り着いたの真夜中だった。
正門はしっかりと施錠されていたが、裏通りへ回ると、ミンソクが教えてくれた石壁の割れ目が確かにあった。
壁を乗り越え、敷地内に入る。鍵の空いている裏口の扉を開けると、蛍光灯の光が最低限にある廊下の奥に一本の蠟燭が照らされていた。
そこには細身の男が本を読んで待っていた。
ソジュンに気が付くと、本にしおりを挟んでこちらに来る。
噛み殺すでもなく、くわっと口を開けてあくびをした。
そんな姿を見れば、はじめましての挨拶をするのもおかしい気がして黙って立っていると、男は意表を突くような質問をぶつけた。
「お前の顔って傷が出来たら、賠償金とかかかったりする?」
こちらの答えを待たずに拳が出た。ミンソクの思いっきりグーパンチがソジュンの頬を打つ。驚きと痛みに、ソジュンは思わず頬を押さえて呻く。
「はい」と言っても「いいえ」と言っても殴るつもりに決めていたから、返事を待たなかったに違いない。なのに、わざわざ質問するところが、リョンインの話に聞いていたミンソクの人柄と一致していた。
再び近づいてきたのに、ぎくりとしたこちらの姿を見て、ミンソクはからかうように笑った。
「もう、殴りませんよ。リョンインに会いに行くのに、男前にしてやっただけ」
ミンソクはさっと本を肩に抱え、廊下の影へと歩みを進め出した。
追いかけるソジュンが痛む頬をさすっているのに気が付くと、あははと笑って、ミンソクはよく分からない励ましをしてくる。
「今まで俺が見たことある中でリョンインが一番イケメンだと思ってたけど、売れっ子芸能人って凄いですね。相当、かっこいい。ほんと、現実じゃないみたい」
自信もって!と背中をバンバン叩かれる。なんなんだ、この人は。
頬をさする手にはめたロザリオリングを見てミンソクが言う。
「貴方もカトリックなんですね」
「ええ、幼児洗礼から」
「それなら俺より歴が長い。…そうだな。この話にしましょう。神学校でこういう教理問答があります。告解で毒を入れたと告白されたら、告解聖事の秘密を守り、その後のミサを行うか?と」
ただの問答で、多くのものはミサを行い迷わずワインを飲み干すと答えるというが、ミンソクはそんなものは口先だけだと思ったと言う。
「この問答を実際に行って、リョンインを揶揄おうとした奴らがいた。リョンインに告解室の掃除を言いつけて、まだ司祭じゃないからと告解を拒絶するのを無視して、『私はミサ用のワインに毒を入れました。左から3番目のワインです』とだけ言って消える」
ミンソクの声は、楽しそうに弾んでいる。
「そう告白されたリョンインは、見習いとして参加したミサで何も言わずに、左から3番目のワインを取り自分で飲みほした。その中身はただの苦い飲み物で、いたずらは終わる」
だが、後でリョンインは真顔で「どうしよう、僕、死んじゃうかも」とミンソクに相談してきたそうだ。心当たりのあったミンソクは「馬鹿、大丈夫だよ。水でも飲んどけ」とあしらうと、本当にずっと水を飲んでいたらしい。
「これはリョンインがバカ真面目だってエピソードな訳だけど。俺は…小さいときからずっと一緒に居て、あいつのことは何でも知ってる。抜けてて間抜けでアホで馬鹿で不器用だけど、リョンインが自ら規律を破ったことは一度もなかった」
階段の前まで来て、ミンソクが立ち止まる。
「きっと、お前のことだけだ。だから、協力してやったのは、お前が必死でうるせーからって訳じゃない。俺のかわいい弟のために、そうした方が良いって思ったからだ」
最後に「階段を上って一番右の部屋」と言って、ミンソクは歩いてきた道を帰っていった。
教えられた部屋の前に立ち、ソジュンはそっと取っ手に手をかけ、ドアを押し開けた。
そこは簡素な部屋だった。白い壁に十字架。質素な机と椅子、窓際のベッド。
ベッドには、リョンインが横になっていた。
ソジュンはベッドの脇に膝をつき、その頬にそっと指を添えた。
陶器のような質感の、作り物のような寝顔。
太陽光を反射する月の光を集めて、蝋のようにぼんやりと光っている。
まっすぐ伸びた鼻筋を境界にして、窓と反対側に薄青色の影を落としていた。
いっそ微かな呼吸が感じられることが不思議な、
決して変らないように思えた固い造形に、
ぱたぱたと水滴が落ちた。
すると、
人形に命が宿るような、死人が生き返るような、不思議とも何とも形容の出来ない変化が、その寝顔に起こり始めた。
ぴくりと睫毛が震え、閉じていた瞳がゆっくりと開く。
「……どうして」
かすれた声でリョンインが言った。
どうして居るのか。どうして泣いているのか。
それを聞いて、ようやく俺は自分がリョンインが生きていることを実感できたことに気付いた。
俺の知らない間に、もう傷つかないで。
お前を傷つけるものなんて、残らずこの世から消してしまいたいのに、きっとその中に俺が居る。
俺はいつも嘘ばかりだ。
どうせ、皆いつかは俺に飽きていく。本当の俺を知ったら見限る。
お前と一緒にいるときの自分だけが良い人間に思えた。
お前が愛してくれるなら、自分が好きになれた。
それなのに、俺たちには7年前のあの時間しかない。
俺を許して、俺だけを見て。
お前の身体を暴いた時、
罪の重さに押しつぶされそうに苦しんでいたのが分かった。
俺から目を逸らしたその瞳は、神を映して怯えていた。
それがどうしようもなく憎らしかった。
俺よりも深くお前を支配している存在に。
俺よりも確かにお前を赦すことができる存在に。
だから、
自分が苦しむべきことで、怒りをぶつけた。
それに傷つくお前の弱さを覗き見ることに、喜びさえ感じていたんだ。
ソジュンはかすかに笑みをつくった。
「お前の怖い兄貴分が手引きしてくれた」
リョンインは思い当たったようで「あぁ」と言って、身体を起こした。
そして、ソジュンの頬に目を留め、眉を寄せた。
「……どうしたの、その顔」
「大事な弟を傷つけたからって」
「……ごめんね」
「ううん。むしろ、嬉しいよ」
ソジュンは、首をかしげてリョンインを見つめる。
合わさった視線はすぐに外され、リョンインはふっと唇を歪めるようにして言った。
「傷つけていたのは、僕のほうだ」
「何、言ってるんだよ」
「君が好きなことが、怖くて…ずっと逃げてた」
リョンインの目から涙がはらはらと落ちる。
「ごめんね。ずっと、好きって言うのが怖くて。たくさん君を傷つけた」
リョンインを抱きしめるソジュン。擦りつけるように顔をその肩に埋める。
「そんなことない」
「ありがとう、僕を幸せにしてくれて。だから、君が……、君はこれから、もっとたくさんの人と出会って、素敵な人と過ごして。君がずっと幸せに過ごしてくれたら嬉しい」
リョンインが別れの言葉を言おうとしているのが分かって、ソジュンは首を振った。
「そんなこと言うな。お前が居なきゃ、意味ない」
リョンインは、抱きしめられたままの姿勢で、しばらく唇を噛んでいた。
ソジュンの肩に落ちる涙が、じわりと温かく広がる。
やがて小さな声がした。
「……本当は、七年前に、言うべきだった。
好きでいるのも怖いくせに、君と別れたくなくて、何も言わずに逃げたんだ。ごめんなさい」
ソジュンはリョンインの肩に顔を埋めたまま、かすかに首を振った。
それを、リョンインの手がしっかりと掴んで、身体を離す。
向き合った、リョンインは濡れた瞳で、ほほ笑んでいた。
冬の空気に漂う埃が月明かりに照らされて光っている。
きっとこの光景のことを俺は生涯忘れられない。
「君が好き。ずっと好きだから」
一瞬ためらってから、リョンインは震える指で自らの上着のボタンに触れた。
ひとつ、ひとつ外して、開けた服を握りしめて、こちらを見る。
「……抱いて、ほしいです」
両の手でリョンインの手を包み込み、その震えを静かに受け止める。触れた唇に互いの涙が流れ込んで温かく感じた。
部屋の外から、夜風が雲を動かして十字架の影を伸ばしていた。




