第三章3 好きだと言って
ある日、土曜日の告解室。
木製の小さな扉の向こうで、蝋燭の灯りが静かに揺れていた。
告解の時間を告げる鐘がとっくに鳴り終え、リョンインは誰かが入ってくるのを待つ中、分厚く黒い表紙を開き目を落としていた。
その祈祷書をつかった時課の典礼の祈りがひと段落着くと、ふぅ、と静かに息を吐く。
今日は、もう誰も来ないかと思った時、軋む音とともに扉が開き、ソジュンが入ってきた。
彼が教会を訪ねてきたのは初めてだった。
座ったまま、しばらく何も言わない。
長い沈黙ののち、かすれた声が漏れた。
「世界中が敵になったみたいだ」
リョンインは静かに問いかけた。
「何があったんですか?」
そうリョンインが言うとソジュンはどこか安心したように見えた。
「全部、壊したくて、…熱くて、とにかく暑くて、頭がおかしくなりそうだ」
リョンインは口を開きかけて、言葉を選んだ。
ソジュンは、続けるように息を吐いた。
「人に、やさしくなりたい」
リョンインが赦しの言葉を告げようとしたそのとき、ソジュンは急に立ち上がり、告解室を飛び出していった。
閉まりきらない扉が微かに揺れ続けた。
リョンインはそのまましばらく座り込み、考えていた。
晩のミサを終え、携帯を確認すると、未読のメッセージが目に入る。
ソジュンからだった。
リョンインは一度部屋に戻り、風呂に入り服を着替えて、指定された駐車場へと向かった。
歩きながら、ソジュンに何があったのかネットで調べることを迷った。
しかし、告解室での自分が何も知らない様子だったことに安心したように見せた姿を思い出せば、どうしても検索できなかった。
潮風が夜の匂いを運び、まだ点いていない街灯の下に黒い車がぽつんと止まっていた。
覗いても運転席には誰もいなかった。
少しずれて後部座席を覗くと、窮屈そうに丸まって寝ているソジュンが居た。
エンジンを切っていたようで車内は冷え切っていた。
「起きて。こんなところで寝たら危ないよ」
12月に入った海沿いの夕方に、暖房もつけていない車内なのにソジュンは薄着で寝ていた。このまま夜に入れば本当に危ないだろう。
肩を叩かれたソジュンは、まるで寝ていなかったかのように、ただ目を開けてこちらを見る。
「リョンイン」
するっと伸びてきた手がリョンインが着ているコートの襟元に差し込まれた。首を冷たい両手でつかまれ、思わず肩が震える。それでも、指の先まで冷え切った手を温めてやりたくて、手を重ねて首を傾け包み込む。
それにソジュンがにっこりと微笑んだ。
「指先がじくじくする」
そのまま唇が触れ、呼吸が交わった。閉じていた唇をこじ開けるように舌が差し込まれて、歯列をなぞっている。
なんというか、予感がした。これに応えたら、きっと全部応えなくちゃいけない。
いつまでも、相手の舌が差し出されないことに気付いていたソジュンが離れていく。
「俺を許して」
そう言って、人の首でさんざん暖を取った手のひらが頬に触れ、再び唇が合わさった。
本当は、ここに来る前に準備をしていた。それなのに、彼のせいにするための言葉を引き出した自分が恥ずかしかった。
「リョンイン、好きって言って」
自分を揺さぶる男が、そう乞うのに、抑えた声に必死になることで誤魔化した。
答えられないまま、夜がゆっくりと落ちていく。
窓の外の街灯が点いて、車内の空気が熱を帯びていった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
ふたりは乱れた服を整えながら、しばらく言葉を交わさなかった。
車のフロントガラスには白く曇った息の跡が残っていた。
体を気遣ったソジュンが車で送るというのを断って、駐車場で別れた。
身体の痛みに寒さが染みることよりも、司祭館の前まで来られる方が嫌だった。
それを見抜いているように、何か言いたげなソジュンから逃げるように車から降りる。
だから、別れ際に「凍死しないでくださいよ」と、少し冗談めかして言ったとき、笑ってくれた姿に安心した。
彼がハンドルを切って駐車場を出ていく。
赤いテールランプが闇に吸い込まれるまで見送ってから、リョンインはゆっくりと歩き出した。
玄関を開けて電気を点けると、人の気配がなく静かだった。
リビングの暖炉は火が既に落ちていたけど、煙のにおいが残っている。
燃え残った木を取り除いて、新たな薪をくべて火を起こした。
薪に火が移り、燃えはじめる。
赤い光が揺れている。
ぱちぱちと乾いた音を聞きながら、思わず両手を組み、祈るように額を押しつけた。




