第一章1 生涯にわたり独身を守り、神と教会に仕えますか
映画「司祭」を下地に、寺田寅彦の随筆「柿の種」に記載の「ほんとうのキリスト教はもうとうの昔に亡ほろびてしまって、ただ幽かすかな余響のようなものが、わずかに、こういう音楽の中に生き残っているのではないか。」から、制度としての宗教と個人の救済としての信仰とかについて考えたBLです!
夢の中で、男はいつも愛おしげにリョンインを見ていた。
「どうして、そんなに可愛いんだ?」
「なに言ってるんですか?可愛くなんかないよ」
「くそったれな訓練中でもお前を見ると、ああ、神様ありがとうって、叫びたくなる」
「あぁ、そう」
恥ずかしくて、ぶっきらぼうにそう言って、目を逸らすと、男は少し憎らしそうに眉をしかめて、リョンインの頬を左手で鷲掴みにした。
触れた親指から金属の冷たさを感じて、男がはめているロザリオリングの存在を思い出す。
男の、その柔らかく細められた瞳を見れば、幼い日に祖母の手で頭を撫でられたかのように、心の奥がじんわりと満たされた。
窓におろされたカーテンの隙間から入って来た日差しが目元にかかり、リョンインは目を覚ました。
ベッドと机しかない小さな部屋で、目覚めから意識が覚醒するまでの短い間に、ぼんやりと見ていた夢を反芻する。
ここ最近は見ていなかったのに、と自分に呆れたように言葉が浮かぶ。
たったひと時、兵役の軍隊生活で共に過ごしただけの男を、何年も経った今なお忘れられないのは、神学院での日々があまりに静かで、刺激に乏しいせいだ。
いっそのこと、起きた時には忘れてしまっていれば良いのに。
けれど、その夢は、かつての現実を元にしているからか、いつも覚えていた。
こうして、何度も繰り返される朝に、やがてリョンインは、満たされない空虚を埋めようと、簡単に強い刺激を得られる行為へと逃げるようになっていた。
ただ頬を優しく撫でられる感触が欲しかっただけのはずなのに、一人遊びのあさましい習慣が身体に沁みついて、今日も繰り返していた。
首にかかるチェーンを汗の雫が伝い落ち、胸元に揺れた不思議のメダイを濡らす。
そっと触れていた指が大胆に動き出し、「あっ、あ」と切羽詰まった声が上がる。
手荒く掻き回し、自ら追い詰めるような動きは、男の触れ方の真似事だった。
どこかで、思い出そうとしている。自分に初めての快楽を教えた男の表情を。指の感触を。声の震えを。
その感覚を辿ろうとする自分が嫌だった。
リョンインは自分の肉体が憎くて、自分をそんな身体に作り替えた男が憎かった。
司祭を目指し、聖職者として神学院に学ぶ身でありながら、欲望に囚われ、こんなことを繰り返している己を、リョンインは呪うほかなかった。
壁に掛けられたキリスト像。人の罪を贖い、血を流して死した聖者。
その磔刑の姿を前にして、醜い姿を晒している。
「ごめんなさい」
唇から、思わず言葉が漏れた。
それは祈りではなく、懇願でもなく、ただの呻きに近かった。
罪を告白し、赦しを求めることすら、自分には許されない気がした。
『慈悲深き父は、この死と復活を持って世を和し、聖霊を送り罪を許したまえり』
定型の赦しの句が頭をよぎる。
リョンインは、天を仰いだ。
大きく息を吸うと、冷たい朝の空気が熱に浮かされた身体を裂くように流れ込む。
こんな己の罪を、代わりに償ってくれなどとは、とてもじゃないが言えないなと自嘲するように笑う。
彼は両手で顔を覆った。掌に触れる頬は火照り、指の隙間からは涙が滲み出る。
自分は穢れている。
その確信が、心を沈ませる。
けれど、忘れがたいと思っていた胸の痛みを、欲望で塗り替える方が、ずっと良い気がしていた。
「かわいいね、リョンイン」
男の声は、神の呼び声よりも近く、甘く聞こえた。
――全てを救う神よりも、ただ僕だけに優しくして。
そんなことを願ってしまっていたことの方が、この浅ましい身体よりも罪深かった。
だから、大丈夫だ。夢だって、もう滅多に見やしない。
これはただの性欲、欲求不満の残滓。好きとか恋とか、そんなものじゃない。
ただ、身体が覚えてしまったものを、欲しがっているだけだ。
気怠い体をのろのろと起こし、ベッドから降りる。
リョンインは膝をつき、床に額を押し当てた。
起床時間だ。そろそろ一度目の鐘が鳴る頃だろう。
聖務日課を終え、朝食の席に着く。
長机に並べられたスープと麦飯の前で、リョンインは向かいに友人が来るのを待ちながら、一冊の雑誌を広げていた。
ページを埋めるのは芸能ゴシップ。
《ライブ終わりの密会 ソジュン、スレンダー美女とお泊り》
そんな見出しの横に、笑顔で女性の腰に手を回す男の写真があった。
夢の男と同じ顔だった。
かつて恋人のように過ごした相手は、今も華やかな舞台に立っている。
中々、顔を忘れさせてくれないのは、このせいでしかない。
「何読んでんの」
背の高い影がひょいと覗き込む。
「おはよう、ミンソク」
彼とは、子どもの頃、同じ釜山内の聖歌隊で一緒になったのが始まりで、それ以来の長い付き合いだ。
幼い時分のリョンインは周りよりも体の成長が遅かったせいか、ミンソクはリョンインの事を気にかけ、弟分のようにどこに行くにも連れまわした。
その関係は今も変わらず、もういい年だというのに時々いまだに子供のように扱ってくるのが少し気恥ずかしかった。
「芸能ゴシップ。芸能人の熱愛記事だよ」
リョンインはページから目を離さずに言った。
「お前、そんなの興味ないだろ」
「別にそんなことないよ」
ミンソクがリョンインから雑誌を奪う。抗議するように「ちょっと」と文句をつけるが、聞いちゃいないのがミンソクだ。
「へえー、アイドルも俳優も全然知らない癖に。あぁ、そういえば、こいつって、お前と兵役で同じ部隊だったんじゃなかった」
リョンインは水をひと口含んでから、答える。
「でも、それっきりだよ。頑張ってるみたいだよね」
「ゴシップ記事見て言うことか?」
ミンソクは笑い、リョンインに雑誌を返す。
リョンインは静かにそれを閉じた。彼のゴシップ記事はこれで何度目かだ。わざわざ保存したりすることはないけど、ただ、目にすれば必ず読んでいた。
メディア活動は見ないようにしているのに、熱愛記事を見ると、なぜかほっとするので、どうしても確認してしまう。
自分がもう傷つかなくなったことに対してか、住む世界が違う事を実感できることに対してか、その理由は自分の中でもはっきりと分かっていない。いまだに夢を見ることと矛盾しているようにも思う。
そのうちに、鈴の音が鳴らされた。澄んだ音が石造りの食堂に広がり、ざわついていた声がすっと消える。
長机に並ぶ神学生たちが、一斉に椅子から立ち上がり、胸の前で十字を切った。
「父と子と聖霊のみ名によって――」
学生たちの韓国語の祈りが低く揃う中に、かすかにラテン語の響きも混じっている。
「主よ、わたしたちに日ごとの糧をお与えください。」
唱和の声が食堂に積み重なっていく。
「アーメン」
祈りが終わり、再び椅子の脚が床を擦る音が鳴りだし、ざわめきが戻る。
目の前の白濁したスープからは、湯気が静かに立ちのぼっている。
匙を取り、大きく口を開けて一口飲むと、腹の虫がぐうと鳴った。思った以上に大きな音に顔をしかめると、向かいのミンソクが揶揄うように笑う。
「おい、腹にメシが間に合ってないぞ」
「うるさい」
祈りと学びの繰り返しが、ただ流れてゆく。何も変わらないような日々の中でも季節は巡る。
鐘の音が、まだ薄闇の残る空気を震わせた。
神学校の礼拝堂から響くその音は、いつもの朝と変わらないはずなのに、リョンインの胸には、ひときわ重く響いた。
今日、自分は司祭になる。
短い朝食の後、候補者たちは祭服に着替え、聖堂へと向かった。石畳を踏む靴音が、朝の空気の中に規則正しく響く。大聖堂の塔は、朝の光を受けて、静かに金色を帯びていた。
堂内の高窓から射す6月の光が白い祭服の列を照らす。
呼名が始まった。
一人、また一人と、候補者の名が読み上げられ、その名を呼ばれた者は立ち上がり、はっきりとした声で「はい」と応える。
「イ・リョンイン」
その名が呼ばれたとき、彼はゆるやかに胸に十字を切り、立ち上がった。
誓いの時が訪れる。
祭壇の前に並び、司教の前で跪く。
「あなたは、生涯にわたり独身を守り、神と教会に仕えますか」
問いは大聖堂の天蓋に反響した。
その瞬間、リョンインの眼は夢を見るように遠のいた。
蘇るソジュンの顔――愛おしそうにこちらを見る眼差し
「好きだよ、リョンイン」
その記憶がふいに胸を灼く。
ぼんやりと夢を見ているような目で司教を見つめたまま動かないリョンイン。
司教の声の余韻が、大理石の床に消えていくほどの間が出来た。
「イ・リョンイン?」
司教が戸惑い小さく呼びかける。
止まっていた呼吸を吹き返すように、リョンインは深く息を吸った。
蝋燭の炎の揺らぎが、目に痛くて、涙が溜まった。
そして、声を絞り出すように、
「……はい、神と教会に仕えます」と答えると、溢れた涙が一筋流れた。
「あなたは、教会の教えと規律に従順であることを誓いますか」
「はい、誓います」
「あなたは、神と人々のために、祈りと奉仕に身を捧げますか」
「はい、捧げます」
一度、答えてしまえば、その後の返事はするすると口から出た。
やがて、司教は候補者の頭に両手を置き、聖霊の恵みを祈る。
リョンインは祭壇の前に立ち、両手を胸の前で組んだ。
その姿は、もう神学生ではなく、ひとりの司祭としての始まりを告げていた。
叙階の儀式は終わり、祭壇の前に並んだ新しい司祭たちは、信徒からの祝福と握手を受けていた。リョンインも、幾度となく差し出される手に応えた。
外へ出ると、陽はもう高く石畳が明るく光る。
その上でミンソクが待っていた。
「おめでとう」
ミンソクは静かにそう言い、握手ではなく、軽く肩を叩いた。
「ミンソク兄さんもおめでとう」
「さっき、お前が誓わないのかと思ったよ」
「え?」
「また、ぼけっとしてたのか?」
「あー、うん。緊張しちゃって」
「まったく、お前が街の司祭様するなんて大丈夫かよ」
「なんだよ、ひどいな。大丈夫だよ、共同司祭もいるんだから」
むっとするリョンインの頬をつねるミンソク。
「悩んでるんじゃないならいいんだ」
「…うん。こっちに顔見せに来るから」
「気をつけてな」
そう言って別れたとき、風が二人の間を通り抜け、ミンソクの裾を揺らした。
ふたりの目には、言葉にしない寂しさがかすかに光っていた。




