[復元データ断片 - 通信記録と推定]
記録者: 不明(サキ・アオイと推定)
記録日時: 不明(文明復興庁による緊急公安布告後)
場所: 旧タクラマカン砂漠、岩陰
【記録開始】
夜の砂漠は、骨の芯まで凍らせる。アークの管理された人工の空気とは全く違う、本物の星空と、本物の夜の冷気だ。私はただ、震える膝を抱えていた。隣で、エレナ先生は静かだった。彼女はF.C.E.U.から奪ってきた第七人類時代の衛星測位端末を、黙々と操作している。
「…寒い」
何時間ぶりかに絞り出した私の声は、ひどくか細く掠れていた。
「ええ。これが本物の夜の空気よ」
彼女は、端末の画面から顔も上げずに答えた。その声も、砂漠の風のように乾いている。
「博士…私たちは、どこへ行くんですか」
尋ねずにはいられなかった。
「復興庁の追手はもうすぐそこまで来ているはずです。このまま砂漠で野垂れ死ぬか、彼らに処分されるか…」
「サキ」
彼女はそこで初めて顔を上げた。その瞳は、頭上に広がる満天の星よりも、深く、静かだった。
「私たちは、彼らから逃げているのではないわ」
彼女は端末を私の方へ向け、古い地球の地図を示した。ユーラシア大陸の西の果て、一つの点が明滅している。
「ロゴス・ウイルスは今や、能動的情報災害と化した。風や水、光のパターンの中に自らの『声』を見つけ出そうとしている。復興庁の連中は『沈黙』こそが唯一の対抗策だと信じ、世界を無菌室にしようとしているけれど、それは緩やかな敗北への道よ」
彼女の指が、地図上の点に触れた。
「でも、もしウイルスがそのパターンを形成できない場所があるとしたら? 混沌があまりにも深く、物理法則そのものが悲鳴を上げ続けているせいで、いかなる繊細な情報の『歌』も成立しない場所が、あるとしたら?」
私には、彼女の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「ここよ」と、彼女は言った。
「第七人類が自らの手で作り出した、物理的に呪われた土地。彼らの時代の最も愚かで、最も永続的な力の象徴。チェルノブイリ」
「…放射線?」
「ええ。高レベルで持続的な放射線。それはあらゆる繊細な情報パターンにとって、究極の『ノイズ』よ。電子機器は狂い、DNAは崩壊する。そしておそらく…ロゴス・ウイルスもまた、そこでは自己の精緻なパターンを維持できない」
彼女は続けた。その声には、狂気と紙一重の確信が滲んでいた。
「情報のデッドゾーン。彼らの古い罪によって毒された場所だからこそ、我々の新しい罪から逃れられる唯一の聖域かもしれないの」
「…毒をもって、毒を制す、ということですか」
「そうよ。そして、そこには彼らが遺したもう一つの『アーク』がある。ソ連時代の深層地下シェルター。もし私たちが真の『抗体』を見つけ出すための研究を続けたいのなら、そこへ行くしかない」
私は彼女の目を見た。そこには恐怖も絶望もなく、ただ冷徹な科学者としての決意だけが燃えていた。私は黙って頷いた。
アークから逃げ出して以来、初めて恐怖以外の感情が胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。それは、目的。そして、目的地。
私たちの旅は、もはや逃亡ではなかった。それは、巡礼になったのだ。地球上で最も汚染された場所へ、我々を救うかもしれない最後の何かを探しに行く、巡礼に。
【記録終了】




