エレナ・ペトロヴァ博士の不整合な経歴記録について
ログID: LOG-WORK-LIAM-■■■■■■■■■
記録者: リアム(第1技術班)
記録場所: 施設「アーク」セクターC「解剖室」データ解析ブース
日付: 大沈黙後 6.8年
件名: アーカイブ・クロスチェック中に発見された、E.ペトロヴァ博士に関する高レベル特異情報
[作業ログ記録開始]
[14:10]
アークのコア・アーカイブに対し、定時の整合性チェックを実行中。潜在的なパターン・ゼロのデータ汚染(劣化)の兆候がないか、ディープスキャンを行っていた。
その過程で、第七人類の情報機関ファイルと我々の現行職員データベースとの間に、自動クロスチェックが作動。一つの致命的なエラーを検出した。
[14:12]
エラー内容:エレナ・ペトロヴァ博士の職員ファイルは、生体情報が20代後半の基準値でロックされている、既知の「特異個体」である。だが、第七人類の諜報機関(CIA/GRU)の共同作戦ファイルに登場する、コードネーム「アッシュ」の言語的指紋が、彼女の過去の学術論文と、99.8%の一致を示した。偶然の一致である確率は、0.001%未満。
問題は、その参照元ファイルだ。コードネーム「アッシュ」に関する記録は、まるで巨大な書物から乱暴に引きちぎられた数ページのように、極度に断片的だった。彼女が所属していたとされる組織の名称、作戦の最終目的、その全てが、意図的に、あるいは、より巨大な何らかのアーカイブから隔離されたかのように、空白になっている。
[14:15]
当該ファイルに添付されていた、破損したビデオクリップの修復を試みる。
信号をクリーンアップし、12秒間の監視カメラ映像を復元。場所は、統一前の東ベルリンと推定。
[14:16]
映像内容の分析を開始。
T+00:03 - 被験体「ペトロヴァ」、フレームイン。
T+00:05 - 敵性工作員2名と接触。2.8秒で、対象を無力化。戦闘スタイルは、運動エネルギー攻撃と、神経系への直接打撃を組み合わせた、ハイブリッド格闘術と分析。
我々の戦闘AIによる解析では、旧ソ連の「システマ」と、イスラエルの「クラヴ・マガ」を融合させた、極めて効率的な近接戦闘術とのことだった。
的確で無駄がなく、そして、あまりにも無慈悲だった。
T+00:09 - 拘束下のターゲットに接近。その耳元で、何かを囁く。
T+00:11 - ターゲットは、まるで内側からその精神を破壊されたかのように、あらゆる生命反応を停止。完全に機能停止。作戦目標、達成。
[14:18]
結論。
エレナ・ペトロヴァ博士は、我々が認識していたような、単なる学者でも、悲劇の生存者でもない。
彼女は、遺産システムだ。
第七人類の、我々がその全貌を知らない、何らかの極秘プロジェクトの産物。彼女の「不老化」は、ウイルスとの偶然の共生などではない。それは、何らかの意図的な設計の結果だ。彼女のロゴス・ウイルスに関する知識は、学術的なものではない。彼女は、その兵器化されたプロトタイプの、実践者なのではないか。
考古学者のサキは、彼女を理解すべき、悲劇の人物として見ている。
だが、私が見ているものは違う。
私は、最高レベルの管理者権限を持ちながら、その仕様書が存在しない、正体不明のルートキットが、この施設内を自由に歩き回っているのを見ているのだ。彼女の公式記録は意図的に真実の大部分が隠されている。
サキの、ペトロヴァ博士に対する、最近の、あの感情的な「パターン逸脱」。
それは今、全く別の危険な意味合いを帯びてくる。
サキは、人間に繋がろうとしているつもりだろう。
だが、実際には、我々がその目的も、機能も、そして、真の危険性すら理解していない未知のブラックボックスへ、無防備に、感情という最も予測不能な入力を与えようとしているのだ。それは、サキ個人の問題ではない。アーク全体の情報的安定性を根底から揺らがしかねない。
この事実は、公式チャンネルでは報告できない。ペトロヴァ博士を、彼女が内包する「未知の脅威」として報告すれば、アークの指揮系統はパニックで崩壊する。そして、何よりサキが、板挟みになる。
だが、看過することもできない。私の職務は、この施設の、そして、職員の、情報的・物理的保全だ。
…ログ終了。
これより、私自身の権限において、エレナ・ペトロヴァに関する、全通信ログ、および、サキ・アオイの個人ログに対する、バックドア・アクセス権を設定する。
監視を始める。
[14:25]
思考の追加記録。
一つの根本的な矛盾が、私の論理回路をショートさせる。時系列だ。
我々第八人類の公的な歴史は、大沈黙の後に『海の書』が発見されたことから始まる。アーリン・ミナカタ博士がそれを解読し、文明復興庁が設立された。
だが、エレナ・ペトロヴァは、その『海の書』に記録されている側の人間だ。大沈黙以前から、存在している。
では、彼女は、その間の空白の期間…我々の文明が生まれるまでの長い静寂の時代を、一体どこで、どうやって、生き延びていた?なぜ、彼女は、もっと早く我々の前に姿を現さなかった?なぜ、まるで我々の文明の成立を待っていたかのように、このタイミングで歴史の表舞台に現れた?
彼女の記録が断片的であること。所属組織が不明であること。これらは、単なる情報の欠落ではない。
我々が教えられてきた歴史そのものが、不完全なのだ。
『海の書』は、我々が発見したのではない。何者かによって、発見「させられた」のではないか?我々の文明の歩みそのものが、彼女のような、我々の知らない存在によって、水面下で導かれていたとしたら?
彼女は、ただの遺物ではない。彼女は、我々の知らない、もう一つの歴史の生き証人だ。そして、その歴史は、我々の存在意義そのものを、根底から覆しかねない。
私の監視対象は、もはや一人の職員ではない。我々の文明の前提そのものだ。
[作業ログ記録終了]




