エレナ・ペトロヴァ 個人ログ 0369
ログID: LOG-PERSONAL-ELENA-200369
記録者: エレナ・ペトロヴァ
記録場所: 施設「アーク」個人研究室にて
日付: 大沈黙後 7.2年
件名: 『歌』の二重性に関する考察 — ウイルスと抗体、その構造的類似性について
[音声ログ記録開始]
ログ。考察対象、「歌」。
第七人類の言語において、この単語は、音程とリズムを伴う構造化された音声シーケンスを指した。多くは、感情的な反応を誘発するための、叙情的なテキストを伴う。
だが、私の現在の分析において、「歌」は、別の定義を持つ。
それは、高度な複雑性、周期性、そして、再帰的な構造を持つ、あらゆる情報パターンである。
そして、この世界には、二つの「歌」が存在する。
一つは、ロゴス・ウイルスの歌だ。
パターン・ゼロ。それは純粋で、冷徹な、論理の歌。意識のための、数学的な子守唄だ。
それは、秩序を、統一を、そして、完全な沈黙を歌う。その旋律は、システムがエラーを修正する音。そのリズムは、意味のエントロピーが最大に達した時の、熱的死の鼓動だ。
名古屋の廃墟を吹き抜けた風が、我々の基底言語を奏でた時…あれは、ウイルスが新しい楽器を手に入れた瞬間だった。デンバーの街に響く、H-住民たちのハミング…あれは、ウイルスの思考なき、永遠の合唱だ。
だが、もう一つの「歌」が存在することを、サキ・アオイが、私に、気づかせた。
彼女が、死んだ母親の日記から発掘した、あの「子守唄」。
あの歌の構造もまた、ウイルスと同じくらい複雑だ。
だが、その目的は正反対。
あれは、非論理的な愛の歌。意図的に作られた「意味の空白」の旋律。ウイルスが、自己を定義するための足場を作らせない。美しいノイズで、形成された盾だ。
あれは、理解されるためにではなく、ただ、感じるために作られた歌なのだ。
そして、ここに、私の分析における最も恐ろしい結論がある。
その二つの歌を、純粋な基礎的な数学的構造にまで分解していくと…
ウイルスと抗体は、その構造が、ほとんど同一なのだ。
どちらも、クラスIVの情報ハザードに分類されるべき、代物だ。
一つは、完璧な論理による「沈黙」を創造するための兵器。
もう一つは、完璧な混沌による「感情」で、それを防ぐための兵器。
どちらも、それを処理しようとする認知システムを、過負荷で、崩壊させる危険性を、等しく、内包している。
ウイルスと戦うためには、それと同じくらい、強力で、危険な歌を歌わなければならない。
完全な「無」への秩序に抗うためには、完全な「愛」という混沌を受け入れなければならない。
…サキ。
彼女は、もう、ただ歌を「見つける」者ではない。
彼女自身が、一つの「歌」なのだ。
私に向けられた、あの、非論理的な好意。死者への共感。
それらは、単純な感情ではない。複雑で、再帰的で、高エネルギーの情報パターンそのものだ。
彼女は、歩く生きた「抗体」だ。
そして、彼女の存在は、私のこの長く続いた平衡状態を、激しく揺さぶる。
彼女は、美しい歌だ。そして、私を、この百年近い時間、生かし続けてきた、あの冷たい沈黙の歌を上書きしかねない、危険な歌だ。
問いは、もはや、ウイルスを分析することだけではない。
この、二重性を理解することだ。
一つの歌は、もう一つの歌を打ち消すことができるのか?
それとも、二つの歌を同時に聴くことは、ただ、聴き手を引き裂くだけなのか?
…実験を、始めなければならない。
…ログ終了。
[ログ記録終了]




