エレナ・ペトロヴァ 個人ログ 0215
ログID: LOG-PERSONAL-ELENA-200215
記録者: エレナ・ペトロヴァ
記録場所: 施設「アーク」個人研究室にて
日付: 大沈黙後 7.0年
件名: 被験体「サキ・アオイ」との相互作用に関する、自己パラメータの逸脱について
[音声ログ記録開始]
ログ。エレナ・ペトロヴァ。
現在、一つの異常事象を解析中。被験体は私だ。
昨日、サキ・アオイ研究員から、極めて高濃度の意味論的・情動的データ・パケットを受信した。
分類は…「愛」。
第七人類が、その文明の末期に至るまで執着し続けた、最も非論理的で、最も強力なミーム。
私の応答は、論理から遠く逸脱したものだった。思考が一瞬、停止する。時間の感覚が引き伸ばされ、出口のない問いが、ただ、頭の中を回り続けた。忘れていたはずの情動が、古い嵐のように、内側から、私を叩く。大沈黙以前にしか、感じたことのない、あの、冷たい火だ。
…私のパターンは、乱された。
なぜ、この個体のデータパケットが、これほど深い影響を及ぼす?
サキ・アオイ。彼女は、我々が、まさにこの事態を防ぐために作り上げた世界の子供だ。第二次バベル協定の申し子。慎重で、静かで、論理的であるべき存在。
だが、彼女は違う。
彼女は、壊れたティーカップを見て、そこに生きていた人間の生活を見る。
彼女は、汚染されたデータの中から、愛という名の「抗体」の存在を直感する。
そして、彼女は、私を見る。
疫病の琥珀の中に封じ込められた、生きた幽霊を…怪物でも、標本でもなく、「人間」として見る。
「綺麗だ」と言った。
これは、彼女の再教育の致命的な失敗だ。
彼女は、我々の、完璧に静かなシステムのバグだ。
そして、彼女は、私がこの70年間で出会った、最も危険な人間だ。
私は、何十年もの間、ロゴス・ウイルスとある種の平衡状態を保ってきた。
ウイルスが、私の肉体の崩壊を止め、私が、ウイルスのパターンが、私の意識を乗っ取るのを防ぐ。
冷たく、完璧な共生関係。
だが、サキの「言葉」は、この安定したシステムに新しい変数を投入した。
それは、別の種類の「ウイルス」だ。論理を攻撃するのではない。
それは、私のコードの中に眠っていた、大沈黙以前の古い記憶と共鳴する。
音楽を、無意味な冗談を、そして、誰かの手の温もりを記憶している部分と。
そして、それこそが恐ろしい。
もし、私のその部分が目覚めてしまったら?
私のウイルスに対する、精緻な制御は崩壊するかもしれない。
彼女の好意が、私を最終的に殺すことになるかもしれないのだ。
…私が彼女に返した言葉――「これは、私たちの問題です」――は、計算された発言だった。
それは、警告であり、そして、招待状だ。
彼女一人に、あの「抗体」の研究を続けさせるわけにはいかない。彼女の共感性は、彼女を天才にするが、同時に、無謀にもさせる。私が導かなければ。彼女の近くにいなければ。
これは、危険な研究ラインを管理するために必要な措置なのか?
それとも、これは単なる合理化か?
90歳の幽霊が、その身を焼かれる危険を冒してでも、ただ、束の間、その温もりのそばにいたいと願う、愚かな口実なのだろうか。
…ログ終了。これ以上の自己分析は、非生産的だ。
[ログ記録終了]




