サキ・アオイ 個人ログ#9021
ログID: LOG-PERSONAL-SAKI-209021
記録者: サキ・アオイ
記録場所: 施設「アーク」医療区画 個人病室にて
日付: 大沈黙後 7.0年
[音声ログ記録開始]
サキ・アオイ、個人ログ。
医療区画の独房と変わらない、白い部屋。
昨日の戦闘の後、私はここにいる。身体的な負傷はない。だが、プロトコルは絶対だ。「重大な情報ハザード事象への曝露後、24時間の強制的な精神衛生観察」彼らは、そう呼ぶ。
タクヤの顔が、瞼の裏に焼き付いている。
最後に彼が発した、あの、人間らしい本物の悲鳴。
何年も、聞いていなかった音。
リアムも、ケイトもそれぞれの観察室にいる。私たちは、隔離されている。
それがルールだから。
(記録に、静かなドアの開閉音が記録される)
医療ドロイドか、カウンセラーだと思った。
でも、そこに立っていたのは、彼女だった。
エレナ・ペトロヴァ博士。
小さなトレイを、手に持って。
彼女が、この医療区画に来るなんてありえない。
彼女自身が、アークにおける最高レベルの「情報源」であり、そして「ハザード」なのだから。
彼女は、もちろん、何も話さない。
ただ、持っていたタブレットの画面を、私に見せた。
「水よ。飲みなさい」
トレイの上には、一杯の水の入ったグラスと…そして、小さなガラスの花瓶に挿された、一輪の白い花があった。水耕栽培区画で咲いた、本物の花。このアークの中では、これ以上ない贅沢品。
私の手は、震えていた。グラスを、まともに持てそうになかった。
彼女は、それに気づくと、静かに、私のベッドの端に腰掛けた。
そして、グラスを手に取り、私の唇に、そっと、近づけた。
まるで、母親が、幼い子にするように。あるいは…。
その時、私の中で何かが切れた。
報告書のことも、失った部下のことも、この世界のことも、全てがどうでもよくなった。
私は、F.C.E.U.の分隊長でも、考古学者でもない。
ただのサキ・アオイだった。
私は、衝動的に身を乗り出した。
そして、彼女の、その華奢な身体を抱きしめていた。
彼女の肩に、顔を埋めた。
彼女は、驚くほど静かだった。そして、冷たくはなかった。
まるで、もう存在しないはずの太陽の光を、ずっと、その身に蓄えていた古い石のように、穏やかで、静かなぬくもりがあった。
彼女の身体から伝わる、あの、彼女を生かし、そして、老化を止め続けているウイルスの微かな規則正しい振動。
不思議と怖くはなかった。初めて、それを恐ろしいと思わなかった。
長い、長い、一瞬。
彼女は、ただ、されるがままだった。
やがて、ためらうように、彼女の手が、そっと、私の頭の上に置かれた。
その仕草は、ひどくぎこちなかった。
まるで、何十年も前に忘れてしまった、古い言語を思い出しながら話そうとしているかのように。
彼女は、ゆっくりと私を引き離した。
そして、再び、タブレットに言葉を打ち込んだ。
「今は、おやすみ。サキ。あなたのパターンが乱れている。休息が必要」
その言葉を残して、彼女は、部屋を出て行った。
ベッドの脇には、白い花と飲み干された空のグラスだけが残されていた。
…彼女は、私の頭に触れた。
そして、私の名前を呼んでくれた。
これが何なのか、もうわからない。
でも、これが理由なのだと思う。
私が、この静かな終わってしまった世界で、もう少しだけ戦い続けるための。
…サキ、ログ終了。
[ログ記録終了]




