サキ・アオイ 個人ログ#4300
ログID: LOG-PERSONAL-SAKI-204300
記録者: サキ・アオイ
記録場所: 施設「アーク」個人居住区画にて
日付: 大沈黙後 6.2年
[音声ログ記録開始]
サキ・アオイ、ログ。
…昨日の、あの醜い感情が、まだ胸の奥に冷たい石のように残っている。
彼女とリアムが、私には理解できない純粋な論理の言葉で繋がっている光景。まるで、自分だけが、分厚いガラスの向こうに、取り残されたような気分だった。
私の最初の愚かな衝動は、そのガラスを、力尽くで叩き割ることだった。
彼らの言語を、あのウイルスの言葉を、自らが壊れる危険を冒してでも、学ばなければ、と。
彼女の隣に立つには、彼らと同じ、非人間的な高みに、登らなければならないのだと。
…でも、今朝、目が覚めて、私は、自分の居住区画に、ただ一つだけ置くことを許されている、あの遺物を見た。
第七人類のティーカップだ。
何の変哲もない、大量生産されたであろう白い陶器。縁に、小さな青い花が一つだけ描かれている。
クラスIの、完全に無害な遺物。
リアムなら、これをケイ酸塩と鉱物顔料の集合体として正確に分析するだろう。
AIは、これを「台所用品、旧式」と、ただ、分類するだろう。
でも、私は。
私は、その縁に残る、かすかな口紅の跡を見る。
持ち手の親指が何度も擦れたであろう、小さな、滑らかな、欠けを見る。
これに、熱い紅茶を注ぎ、窓の外を眺めていた、誰かの穏やかな朝を想像する。
その手の温もりを感じることさえ、できる気がする。
そうだ。
私は、コードの言葉は、話せない。
でも、私は、ティーカップの、この小さな欠けの言葉を話せる。
書きかけの手紙のインクの滲みの言葉を。
銅像の足元で、寄り添って白骨になった恋人たちの言葉を。
私は、考古学者だ。デジタルの沈黙ではなく、人間の、魂の沈黙に、声を与えるのが私の仕事だ。
エレナ博士は、リアムを必要としているだろうか?
彼女は、情報の奔流の中で、誰よりも、孤独だ。彼女の周りは、ロジックと、パターンと、ウイルスの脅威だけで満たされている。
私が、彼女に与えることができるもの。
それは、データストリングの新しい解析結果ではない。
このティーカップを使っていた、名もなき女性の物語だ。
彼女が失った、あの暖かくて、面倒で、非論理的で、そして、どうしようもなく美しい世界の、小さな、小さな、かけらだ。
もしかしたら…それこそが、あの生きた遺物の中に、今も囚われている「人間」に、本当に届く、唯一のものなのかもしれない。
…昨日の嫉妬は、愚かだった。
自分が、無力なのではないかという、恐怖だった。
でも、私は、無力じゃない。私の仕事は、死を理解することだけじゃない。生を、記憶することだ。
私は、ウイルスの言葉は学ばない。
私は、私の言葉を極める。幽霊たちの言葉を。
そして、その言葉で、彼女という、最も気高い幽霊に語りかけよう。
もしかしたら、彼女は、ただ、寂しいのかもしれない。彼女のいた、古い世界の物語を聴きたいと思っているのかもしれない。
…サキ、ログ終了。
ええ、これでいい。
[ログ記録終了]




