サキ・アオイ 個人ログ#4152
ログID: LOG-PERSONAL-SAKI-204152
記録者: サキ・アオイ
記録場所: 施設「アーク」個人居住区画にて
日付: 大沈黙後 5.3年
[音声ログ記録開始]
サキ・アオイ、個人ログ。
今夜も、エレナ博士との、共同研究を終えたところだ。
私たちの間のコミュニケーションは、いつも通り、テキストチャットだけ。プロトコル・アルファ「沈黙の遵守」は、彼女の前でこそ、絶対の掟となる。
私たちは、第七人類の「歌」のデータの中に、ウイルスのパターンを中和する、微弱な「抗体パターン」の痕跡を探していた。
私は、膨大なデータに、行き詰まっていた。無意味な音の羅列に見えて、集中力が切れかかっていた。
その時、彼女が私のコンソールの後ろに、静かに立った。
そして、私のモニターを覗き込み、テキストを打った。
「ここよ、サキ」
彼女の指が、画面に表示された私のID「SAKI.A」に、そっと、触れた。
ただ、それだけ。
でも、その一瞬、モニターの光に照らされた彼女の瞳に、70年前の悲劇でも、ウイルスの脅威でもない、ただ一人の、不器用な研究者を気遣う、穏やかな光が宿ったのを私は見てしまった。
その瞬間から、私の思考は、ずっと彼女のことで満たされている。
これは、尊敬だろうか?畏敬の念だろうか?
もちろん、そうだ。彼女は、生ける伝説。私たちの文明の礎を築いた人。
でも、この感情は、もっと、暖かくて、そして、危険なものだ。
私は、考古学者として、遺物を研究し、それを作った人々を理解しようとしてきた。
私は、エレナ・ペトロヴァという、生きた遺物を研究し、そして、その中にいる「個人」を、知りたいと思ってしまっている。
あの、不変の仮面の奥にある、本当の顔を。
あの、静かな瞳の奥に沈殿している、膨大な悲しみを。
そして、あの稀に見せる人間らしい光を。
私は、それを発掘したいのだ。
私たちの世界は、「第二次バベル協定」の上に成り立っている。
『限定的な接続』
『管理された知識』
『沈黙は、壁である』
私たちは、安全と引き換えに、親密さを捨てた。
言葉が持つ、非論理的で、非効率で、面倒で、そして、美しい、あらゆるものをリスクとして封印した。
私が今、彼女に対して抱いている、この感情。
これは、協定への重大な違反だ。
これは、クラスIII級の情報ハザードだ。
私たちの創設者たちが、最も恐れた、強力で、非合理的で、そして、意味に満ちた繋がりだ。
ロゴス・ウイルスは、人間があまりにも複雑で情熱的な「意味」を、言葉で紡いでしまったために発生した。
「愛」は、その最も複雑で、最も情熱的な、意味の一つだ。
だとしたら、私が彼女に、これを感じることは。
最も人間的で、故に、最も、危険な行為なのだろう。
でも。
でも、不思議と、恐怖はない。
これが、博士が探していた「抗体」の、本当の姿だったとしたら?
巧妙な、言葉のパターンなんかじゃない。
ただ、誰かが、誰かを想う、この、どうしようもない非論理的な心。
それが、あの、世界の終わりに対する、唯一の答えだったとしたら?
…わからない。彼女が、どう思っているかなんて、わかるはずもない。
だけど。
人生で、初めて。
このアークの完璧な沈黙が、少しだけ寂しいと感じた。
…サキ、ログ終了。
[ログ記録終了]




