第八話:王都の再会と深まる暗雲
第八話:王都の再会と深まる暗雲
王都アストリアへの帰還は、国民の熱狂的な歓迎と安堵の空気で迎えられた。辺境での危機の詳細が王都に伝わり、女王アリアナと護衛騎士団長ゼノスが王国を救った英雄として称賛されていたからだ。特に、女王が自ら辺境へ赴き、命懸けで陰謀を暴き、禁断の魔法の力を封じ込めたことは、彼女のカリスマ性を一層輝かせ、国民の敬愛をこれ以上ないほど深めた。王都の広場では、彼女の帰還を祝う声が鳴り響き、花吹雪が舞っていた。美貌の女王は、疲れも見せず、国民の声援に笑顔で応えていた。その姿は、神話の女神のように美しく、力強かった。
しかし、王宮内では、国民の熱狂とは裏腹に、不穏な動きが加速していた。ゼノスの負傷と、辺境での出来事が、宰相エルードやその一派によって都合よく解釈され、ゼノスへの疑念と、女王とゼノスの関係に対する、嫉妬や憶測が、陰湿に囁かれ始めていたのだ。「ゼノス騎士団長は、女王陛下を惑わしている」「陛下の判断が感情に流されたのは、彼のせいではないか」「護衛という立場を利用して、陛下の傍らに侍っている」などといった、根も葉もない噂が広まっていた。
アリアナは、帰還後すぐに、満身創痍のゼノスを王宮内の最も信頼できる医療班に託した。最高の医療を受けさせるよう指示し、熟練の医師と回復魔法の使い手を何人も集めた。そして、自らも多忙な公務の合間を縫って、彼の元へ足繁く通った。他の誰よりも、彼が回復することを願っていたのは、女王アリアナだった。
「ゼノス…」
アリアナは、王宮の一室で、ベッドで眠るゼノスの傍らに座り、彼の顔を見つめる。顔色はまだ優れないが、危険な状態は脱したと医療班は報告している。意識も戻り、会話もできるようになったが、体力はまだ回復していない。
「まったく、本当に心配させすぎよ。石頭なんだから、怪我の治りも遅いんじゃないの?脳みそまで石頭が移っちゃったの?」
アリアナは、ゼノスの寝顔に話しかける。彼の顔には、まだかすかに苦痛と疲労の跡が見える。
(…早く、いつもの真面目な顔に戻ってちょうだい…そして、私のこの意地悪なからかいを、真剣に受け止めて困った顔をしてちょうだい…石頭で、また真面目に考え込んでちょうだい…)
アリアナは、意識のない彼相手だからこそ、素直な感情と、少し意地悪な言葉を交ぜて話しかける。彼がいない間、どれほど寂しく、不安だったか。彼の存在が、彼女の日常に、どれほど大きな穴を開けていたか。それを知ったら、彼はまた「御意」とか「私の役目ですから」とか言って、真面目に受け止めるのだろうか。想像するだけで、少し心が温かくなる。そしてまた、少しだけ、彼を困らせてみたい、という意地悪な気持ちも湧き上がる。
その時、部屋の扉がノックされた。ノックの音は、控えめながらも、どこか威圧感を含んでいた。入ってきたのは、侍女だった。
「陛下、宰相閣下が、ゼノス騎士団長殿のお見舞いにいらっしゃいました。」
「…宰相?」
アリアナは、眉間に微かにシワを寄せた。エルードが、わざわざゼノスの見舞いに?それは、心配から来るものではないだろう。何か企んでいるに違いない。
「通しなさい。」
アリアナは、ゼノスの手をそっと離し、姿勢を正した。顔から、先程までの柔らかさが消え、冷徹な女王の顔に戻る。その変化は、見事なほど速かった。
エルードが部屋に入ってきた。彼の顔には、心配の色が浮かんでいるが、その目は、寝台のゼノスに向けられている。その視線には、心配よりも、観察するような、そして少しばかりの悪意が含まれているのが、アリアナには見て取れた。
「おお、ゼノス騎士団長殿。痛ましいお姿。辺境での御功績、心より称賛いたします。まさか、禁断の魔法と関わるとは…大変なご苦労だったことでしょう。」
エルードは、ゼノスに対し、慇懃無礼な挨拶をした。その言葉には、功績を称えつつも、危険なことに関わったことを遠回しに咎めるような響きが含まれていた。
ゼノスは、周囲の動きに眠りから覚め、意識ははっきりしたが、まだ体を起こす力がない。アリアナが傍らにいることで、幾分か安心したような表情ではあったが、エルードの言葉を聞き、僅かに顔を強張らせた。
「宰相閣下。ご心配痛み入ります。ゼノスは、必ず回復するでしょう。そして、再び私の剣として、王国に尽くすでしょう。」
アリアナは、エルードの言葉の裏を探りながら、ゼノスへの揺るぎない信頼を強調するように応対する。その美貌は、冷たい光を放ち、エルードの目を射抜くかのようだった。
「それは何よりでございます。陛下も、ゼノス騎士団長殿の回復を、心待ちにされていることでしょう。しかし…禁断の魔法と関わるとは、危険極まりない。陛下も、危うく命を落とされかけたとか。やはり、若すぎる者は、判断を誤ることがございます。まして、感情に流されやすい者など…臣下の身でありながら、女王陛下の御心を乱すような者も…」
エルードは、言葉巧みにゼノスを貶め、そして、女王とゼノスの関係が、公的な判断に影響を与えているのではないか、という疑念を植え付けようとする。彼の目は、アリアナの顔から、ゼノスの顔へと移る。
ゼノスは、エルードの言葉を聞き、内心で深く傷ついていた。自分が陛下の御心を乱し、陛下を危険に晒したというエルードの言葉は、彼の最も恐れていることだった。そして、自分への疑念が、陛下の立場をも危うくしているのではないか、と不安になる。
アリアナの顔に、怒りの色が浮かぶ。だが、彼女は理性でそれを抑え込む。感情的になっては、エルードの思う壺だ。
「宰相。辺境での出来事は、ゼノスの命懸けの働きがなければ、王国全体を揺るがす事態となっていました。彼の判断は、決して間違いではありませんでした。彼こそが、あの場で私を守りきった唯一の存在です。」
アリアナは、ゼノスを庇う。その声には、エルードに対する明確な反発と、ゼノスへの深い信頼が込められている。
「しかし、陛下。陛下の御身は王国の宝。あの場に、ゼノス殿のような経験不足の者がおらず、もっと冷静な、例えば私のような者がいれば、陛下は危険な魔力を行使せずとも、済んだのでは?陛下が魔力を暴走させたのは、彼が傷ついたことへの感情的な動揺が原因では?」
エルードは、さらに踏み込んだ。辺境でアリアナが魔力を暴走させたことを持ち出し、それはゼノスが傷ついたことによる感情的な動揺が原因だと指摘した。それは、アリアナとゼノスの関係が、王国の危機に影響を与えたと主張しているのだ。
ゼノスは、エルードの言葉を聞き、血の気が引いた。陛下のあの強力な魔力の発現は、自分のせいだったというのか…?自分は、陛下をお守りするどころか、かえって危険な力を使わせてしまったのか…?
アリアナの顔から、冷静さが消えた。エルードの言葉は、図星だった。彼女が魔力を暴走させたのは、ゼノスが傷ついたのを見たからだ。そして、それを他人に指摘されたことに、強い動揺を覚えた。
「それは…っ…!」
アリアナは、言葉に詰まる。
エルードは、アリアナの動揺を見て、さらに言葉を重ねた。
「陛下。臣下との個人的な感情が、国家の危機における判断に影響を与えるのは、危険極まりない。ゼノス騎士団長殿は、素晴らしい騎士かもしれませんが…女王陛下の傍らに侍る者としては、あまりにも感情的すぎ、経験も不足しているのでは?ここは、彼を護衛から外し、静養させた方が…王国の安全のためにも…」
それは、ゼノスを完全に排除しようとする、エルードの明確な提案だった。そして、ゼノスとアリアナの絆を、公的な立場から引き裂こうとする悪意に満ちていた。
ゼノスは、エルードの言葉を聞きながら、全身から力が抜けていくのを感じた。陛下の傍を離れる?護衛から外される?それは、彼の存在理由を奪うことだ。そして、陛下の傍にいられなくなる…
アリアナは、エルードの言葉に、怒り、悔しさ、そして恐れがないまぜになった感情を抱いた。ゼノスを護衛から外すなど、考えられない。彼は、私の剣であり、私の光であり…そして、私にとって、かけがえのない存在なのだ。
「宰相…その話は、追って検証しましょう。今は、ゼノスの回復が最優先です。そして、私の護衛は、私が決めます。誰の指図も受けません。」
アリアナは、絞り出すように言った。その声は、微かに震えていた。
エルードは、アリアナの様子を見て、満足そうに笑った。彼は、女王を動揺させることには成功したのだ。
「…失礼いたしました。陛下の御判断、お任せいたします。しかし…王宮内には、様々な声がございます。陛下におかれましても、十分にお考えになられるべきかと。」
エルードは、捨て台詞のようにそう言い残し、去っていった。
エルードが去った後、部屋には重苦しい空気が残った。アリアナは、エルードの言葉が胸に突き刺さっていた。自分の判断は間違っていたのだろうか?ゼノスへの感情が、女王としての判断を曇らせたのだろうか?
「ゼノス…」
アリアナは、ゼノスの傍らに再び座り、彼の手に触れた。
ゼノスは、アリアナの手の温もりを感じながら、エルードの言葉が頭の中で反芻されていた。自分が、陛下の弱点になっている。陛下の判断を誤らせる原因になっている。
「陛下…私は…あなたの剣として…失格…なのかもしれません…」
ゼノスは、か細い声で呟いた。彼の紅玉色の瞳には、深い苦悩の色が浮かんでいる。
「何を言ってるの!そんなことないわ!」
アリアナは、慌てて否定した。
「あの時…私が…傷ついたことで…陛下は…危険な魔力を…」
ゼノスは、言葉を途切れさせながら言った。
「それは…それは、私の力が足りなかったからよ!あなたが傷つく前に、私が全てを終わらせていれば…」
アリアナは、自分を責めた。
「いいえ…私の不甲斐なさのせいで…陛下の御身を危険に晒し…御心を乱し…私は…」
ゼノスは、自らを深く責める。
「やめて!そんなこと言わないで!」
アリアナは、ゼノスの手を強く握りしめた。その手に、彼女の体温と、震えが伝わる。
「あなたは…あなたは私の剣よ!最強の剣よ!あなたがいなければ…あの時、私はどうなっていたか…!」
アリアナは、涙ながらに訴えかけた。その言葉は、主従の信頼、そしてそれ以上の、彼の存在への依存を示していた。
ゼノスは、アリアナの涙を見て、胸が締め付けられる。彼女を泣かせているのは、自分だ。
「陛下…泣かないでください…私のために…御心を痛めないで…」
「っ…あなたのために、御心を痛めて何が悪いのよ!あなたは、私の…!」
アリアナは、言葉に詰まる。「私の大切な人」と続けたいが、主従の壁がそれを許さない。そして、エルードの言葉が頭をよぎる。
「あなたは…あなたは私の…剣…よ…」
アリアナは、結局、その言葉に落ち着いた。しかし、その「剣」という言葉には、複雑な、深い感情が込められていた。それは、単なる道具ではない。かけがえのない、唯一無二の存在。
ゼノスは、アリアナの言葉を聞きながら、彼の内心で、主従の誓いと、彼女への恋心が激しくせめぎ合っているのを感じた。自分が陛下の弱点になるのであれば、陛下の傍を離れるべきではないか?しかし、陛下の「私の剣」という言葉、そして涙ながらの表情を見ると、彼女の傍を離れるなど、死ぬよりも辛い。
「陛下…私は…あなたの剣として…生き続けます…」
ゼノスは、か細い声で言った。それは、彼にとっての精一杯の、忠誠と、そして生きる意志を示す言葉だった。そして、彼の「剣」という言葉には、アリアナが込めたような、個人的な感情は、まだ込められていなかった。彼は、まだ自分自身を「剣」という枠の中に閉じ込めようとしている。
アリアナは、ゼノスの言葉を聞き、彼の決意を感じ取った。しかし、同時に、彼がまだ自分への感情を「剣」という言葉の裏に隠していることも感じ取った。そのもどかしさが、彼女の心を締め付ける。
「…ええ。そうよ。私の剣。だから、早く元気になって。そして…もう二度と、あんな無茶はしないで。約束よ。」
アリアナは、ゼノスの手を握りしめ、彼の寝顔を見つめた。彼の顔に、微かな安堵の色が浮かんだように見えた。
王都の静かな一室。美貌の女王は、傷ついた騎士の傍らで、彼の回復を祈り、王宮内の暗雲、そして二人の関係の行方を思い描いていた。
主従の壁は、より高くなったように感じる。エルードの存在が、二人の間に新たな亀裂を入れようとしている。しかし、同時に、ゼノスの意識が戻り、互いの存在の重要性を再確認したことで、二人の絆は、より深く、そして切なく結ばれ始めていた。
この暗雲の中で、二人の主従関係の恋は、どのように進んでいくのだろうか。そして、ゼノスは、いつか「剣」という殻を破り、アリアナへの感情を素直に認めることができるのだろうか。アリアナは、彼の回復を待ちながら、その日を願うとともに、迫りくる新たな危機に、女王として立ち向かう覚悟を固めていた。