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第七話:傷跡と微かな光

第七話:傷跡と微かな光

禁断の魔法の領域での激戦から一夜明けた。辺境領主の館の地下空間は、静寂を取り戻していた。アリアナは、意識を失ったゼノスを抱きかかえたまま、膝をついていた。彼の脇腹の傷は、今もなお、血を滲ませている。彼女自身の魔力はほとんど枯渇しており、有効な回復魔法を施すことができない。彼女の騎士服は汚れ、髪は乱れ、美貌の女王の顔は、涙と煤で汚れ、憔悴しきっている。しかし、その紅玉の瞳に宿る光だけは消えていなかった。ゼノスを生かさなければならない、という強い意志の光だ。


「ゼノス…起きて…お願い…!こんなところで…私の傍を離れないで…!」


アリアナの声は、掠れていた。その声には、女王の威厳など微塵もなく、ただ大切な人を失いたくないという、一人の少女の悲痛な願いが込められていた。


夜明け前、アリアナは、かろうじて動ける兵士たちと共に、満身創痍のゼノスを抱え、館の地下から脱出した。辺境領主とその側近たちは消え去ったが、館に残っていた兵士たちは、領主の裏切りを知り、降伏した。


館の一室に、ゼノスは運び込まれた。辺境の村にいた、僅かな医療の知識を持つ老女が手当てにあたるが、傷の深さに首を横に振る。


「これは…難しい傷ですじゃ…なんとか命は助かっても、意識が戻るかどうかは…神のみぞ知る、ですじゃ…」


老女の言葉に、アリアナの心臓が凍り付く。命は助かっても、意識が戻らない…?それは、ゼノスが、二度と自分に微笑みかけたり、話しかけたり、真面目な顔で考え込んだり、そして…傍に立っていてくれないということだ。彼の「石頭」ぶりも、内心の混乱も見れないということだ。


アリアナは、ゼノスのベッドの傍らに座り込み、彼の手に触れた。冷たく、固い手。いつも剣を握っている、騎士の手だ。この手が、いつも自分を守ってくれた。この手に、どれほど救われただろうか。彼の指の節々や、手のひらに刻まれた傷跡が、彼のこれまでの戦いを物語っていた。


「ゼノス…」


アリアナは、彼の手に自分の頬を寄せた。冷たい感触が、彼女の心をさらに凍えさせる。


「私のために…あなたを、こんなにしてしまって…私がいなければ、あなたはこんな危険な場所に来ることもなかったのに…!」


アリアナは、ゼノスの手にしがみつき、泣き崩れた。カリスマ溢れる紅玉の女王は、今、ただの傷ついた、後悔に苛まれる少女だった。彼女の美貌が、涙で歪む。しかし、その涙は、彼女の心を洗うかのように、より一層輝きを増しているかのようでもあった。


数日後。辺境の状況は、アリアナの迅速な指揮と、ゼノスが命懸けで暴いた陰謀のおかげで、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。辺境領主の裏切りは明らかになり、禁断の魔法の力も、一時的とはいえ封じ込めることに成功した。ヴァルカンの侵攻も、混乱に乗じたものであり、本格的なものではなかったため、一時的に退却していった。


アリアナは、怪我の回復もままならないまま、辺境の民を励まし、復興への指示を出した。彼女のカリスマ性は健在で、疲弊した民に希望を与えた。その姿は、まるで奇跡のようで、辺境の民は彼女をさらに深く敬愛するようになった。しかし、その内心では、常にゼノスのことが離れなかった。


ゼノスの容態は、一進一退だった。熱が出たり下がったりを繰り返し、意識は戻らない。アリアナは、公務の合間を縫って、必ずゼノスの元を訪れた。そして、彼の傍で、話し続けた。


「今日も、駄目だったわ…全く、いつまで寝てるつもりなのよ。怠け者め。」


アリアナは、彼のベッドの傍らに座り、独り言のように呟く。それは、ゼノスへのいつもの本当の感情を隠した呼びかけだった。


「ねぇ、ゼノス。王都では、あなたが私の命を救った英雄だって、みんな褒めてるわよ。辺境の民も、あなたに感謝してるわ。当然のことだけどね。」


「…別に、褒められたくてやったわけじゃない、とか言うんでしょ?私の役目ですから、とか。あなたの、そういう真面目すぎる返事…早く聞きたいわ。」


アリアナは、意識のないゼノスに話しかける。まるで、彼がそこにいて、いつものように真面目に、そして少し困ったような顔で返事をしてくれるかのように。彼女にとって、彼の真面目すぎる反応は、今やなくてはならないものになっていた。


「ねぇ、早く目を覚ましてよ。書類が溜まってるわ。あの山を見るだけで、あなたの石頭な顔が見たくなるのよ。あなたが淹れてくれるお茶も飲みたいし…誰が淹れてくれても、あなたの淹れたお茶とは違うのよ。なんか…味がしないの。」


「それに…あなたの、あの石頭な顔が見れないと、なんか…調子が出ないの。私、なんか、変なの。」


アリアナは、意識のないゼノス相手に、話しかける。彼の真面目すぎる反応が見れないことが、彼女にとって、これほど寂しいことだったなんて。彼の「石頭」な部分さえも、彼女にとってはかけがえのないものになっていたのだ。彼の存在が、彼女の日常に、どれほど彩りを与えていたのかを、今、痛感していた。


「ねぇ、起きたら、また私のお茶淹れてくれる?あと…またあなたの顔に、何か付いてるって、からかわせてくれる?」


アリアナは、そこまで言って、顔を赤らめた。意識のない彼相手だからこそ言える言葉だ。彼の頬に触れた時の、あのドキドキ。彼をパニックに陥らせてしまったが、彼女自身も、想像以上に動揺していたのだ。あの時、彼の真っ赤になった顔を見て、なぜだか心が弾んだのだ。


「…ねぇ、ゼノス…あの時…私を庇ってくれて…ありがとう…」


アリアナは、掠れた声で、素直な感謝の言葉を口にした。心からの言葉。


「…お願い…私の傍に戻ってきて…私の剣…私の…」


アリアナは、ゼノスの手を握り、額を彼の手に押し付けた。涙が、また溢れてそうになる。彼女の美貌が、濡れて輝いている。


その時、アリアナの握るゼノスの指が、微かに動いたような気がした。


「…え…?」


アリアナは、ハッとしてゼノスの顔を見る。しかし、表情に変化はない。熱でうなされているだけだろうか。気のせいだったのだろうか。絶望的な状況で、希望を見出そうとする自分の願望が見せた幻か。


数日後、王都への帰還が決まった。辺境の状況は安定したが、王宮内の裏切り者の存在はまだ明らかになっていない。アリアナは、危険を承知で王都に戻ることを決めた。ゼノスを連れて。王都には、より高度な医療がある。彼を救える可能性があるならば、一刻も早く連れて帰らなければならない。


王都への帰還の旅は、厳戒態勢で行われた。ゼノスは、特別に設えられた、最も揺れの少ない馬車の中で、まだ意識のないまま横たわっている。アリアナは、他の馬車ではなく、ゼノスと同じ馬車に乗り込んだ。他の臣下からは反対されたが、アリアナは譲らなかった。「私の剣を傍らに置くことは、女王としての私の判断だ。」そう言って、押し通した。


馬車の中、アリアナは、ゼノスの手を握り、彼の過去、そして二人の幼い頃の思い出を語りかけた。


「ねぇ、ゼノス。覚えている?幼い頃、私が怪我をしたあなたを手当てした時のこと。あの時、あなたは私の顔を見て、真っ赤になって…まるで初めて太陽を見たみたいに、目を丸くしていたわ。」


アリアナは古い記憶を蘇らせていた。


幼い頃のゼノスは、貧民街で怪我をし、倒れていた。空腹と絶望の中で、彼は世界の光を見失っていた。偶然それを見かけた幼い王女アリアナは、侍女たちの制止を振り切り、身分を隠し、彼の手当をした。ボロボロの服を着た、見慣れない子供である自分に、躊躇なく手を差し伸べ、優しく手当をしてくれる幼いアリアナの姿。その時の、彼女の優しさと、純粋な輝きに、ゼノスは心を奪われた。それは、闇の中で生きていた自分にとって、初めて見た、あまりにも眩しい光だった。彼女の美貌は、幼いながらも、全てを照らす太陽のようだった。彼は、彼女こそが自分の仕えるべき主君だと悟り、そして、その小さな心に、初めて「守りたい」という強い思い、そして仄かな憧憬を抱いた。アリアナの優しい笑顔に、ゼノスは顔を真っ赤に染めた。


ゼノスは、アリアナが去った後、彼女から貰った小さなペンダントを握りしめ、立ち上がった。そして、アリアナのような「光」の傍にいる資格を得るため、王宮を目指すことを決意したのだ。


「あの時、あなたは私の、何だったのかしら。幼い私には分からなかった。ただ、あなたを助けたい、って思っただけ。でも…今の私には、少しだけ、分かる気がするわ。」


アリアナは、ゼノスの寝顔を見つめながら呟く。彼の存在は、単なる護衛ではない。支えであり、心の拠り所であり、そして…彼女の心を揺さぶる、かけがえのない存在。


「あなたは、私の光だったのよ。あの時も、そして、今も。私の傍を照らしてくれる、大切な光。」


アリアナは、彼の手に顔を寄せた。熱い涙が、彼の冷たい手に落ちる。


その言葉を聞いた瞬間、ゼノスの指が、アリアナの手を、弱々しくも確かに、握り返した。


「…!!!」


アリアナは、驚きに目を見開いた。それは、紛れもない感触だった。意識のない彼の、本能的な反応だろうか。それとも…


「ゼノス!?ゼノス!聞こえるの!?」


アリアナは、興奮と希望に震えながら、ゼノスに呼びかけた。彼女の美貌が、希望の光を受けて輝いている。


ゼノスの瞼が、微かに震える。そして、ゆっくりと、彼の紅玉色の瞳が、微かに開かれた。その瞳には、まだ焦点が合っていないが、確かにアリアナの顔を捉えようとしている。


「…ひ…か…り…」


ゼノスの唇から、微かな声が漏れた。それは、意識が戻ったことを示す言葉であり、そして、アリアナの言葉への、応えだった。


「ゼノス!目が覚めたのね!ああ、よかった…!ゼノス!私の声が聞こえる!?」


アリアナは、安堵と喜びに、ゼノスの手を強く握りしめた。涙が、また溢れて止まらない。その涙は、美貌の女王の顔を、より一層輝かせた。


ゼノスは、焦点の定まらない瞳で、アリアナの顔を見つめた。彼女の涙、安堵した表情。それは、夢ではなかった。自分が、生きている。そして、陛下の傍らにいる。彼女の「光」という言葉が、彼の心に響いていた。


「…め…い…」


ゼノスの口から、再び微かな言葉が漏れた。


「…命令…?何?私に、何か命令があるの?何でも言って!」


アリアナは、ゼノスの言葉を聞き取ろうとする。彼の言葉を、一言も聞き漏らしたくない。


「…い…き…ろ…と…」


ゼノスは、消え入りそうな声で言った。「生きろ」という命令。それは、意識を失う前、アリアナが彼に向けて、涙ながらに叫んだ言葉だった。


「…ええ!そうよ!あなたは生きるの!私の傍で、生きるのよ!勝手に死のうなんて、許さないからね!」


アリアナは、ゼノスの言葉を理解し、力強く頷いた。そして、最後は、彼に向ける彼女らしい言い方になった。


ゼノスは、アリアナのその言葉を聞き、微かに微笑んだ。それは、安堵と、そして深い満足が混じった、彼女の知る限り最も穏やかな微笑みだった。彼の意識は再び遠のきそうになっていたが、アリアナの言葉はしっかりと心に刻まれた。そして、再び目を閉じた。しかし、その手は、まだアリアナの手を、弱々しくも確かに握っていた。


「ゼノス…!まだ眠っちゃ駄目よ!私を一人にしないで!」


アリアナは慌てて呼びかけたが、ゼノスは再び意識を失ってしまったようだ。しかし、その表情は穏やかだ。死の淵から、生還への一歩を踏み出したのだ。


アリアナは、ゼノスの手を握ったまま、彼の寝顔を見つめた。彼はまだ危険な状態だが、微かな希望の光が見えた。そして、彼が意識を失う前に口にした言葉。「光」、そして「生きろ」という命令。それは、彼が自分の言葉を聞いていた証拠であり、そして、二人の心が、主従の壁を超えて、確かに通じ合っている証拠でもあった。


王都への帰還の旅は続く。馬車の中、美貌の女王は、傷ついた騎士の手を握り、彼の傍らで、今後の困難な道のりを、そして二人の関係の行方を思い描いていた。


主従の壁はまだ高い。しかし、微かな光は差し込んできている。この光が、いつか二人の道を照らすことを願いながら。そして、彼が完全に回復したら、もう二度と、あんな無茶はさせないと心に誓った。そして、その時、この溢れる想いを、どのように彼に伝えるべきか、あるいは伝えないべきか…アリアナの、女王としての頭脳と、一人の女性としての心が、同時に複雑な計算を始めていた。それは、王国を治めるよりも、もしかしたら難しい問題かもしれない。

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